転職について➀

私は過去2度転職をしてます。

周りを見ても、転職した人や転職しようか悩んでいる人が沢山いるようです。

同世代は今年で30歳、社会人8年目。まあ色々考えますよね。(ちなみに自分は既に30歳。アンチエイジング頑張ろう(適当))

一度も転職を考えないでずっと1社目で働いている方の方が稀なんじゃないでしょうか。

 

今回は自身の過去エピソードと転職に対する考えをまとめてみます。(長い話になるので、いくつかの記事に分割予定)

まず、自分の職歴をまとめるとこんな感じです。

➀2013年4月~2015年9月:飼料メーカー(家畜のエサ)

➁2015年10月~2016年1月:フリーター

➂2016年2月~2018年9月:IT会社(決済システム)

➃2018年10月~現在:IT会社(交通系アプリなど)

 

➀~➃それぞれ振り返って、最後にまとめる感じの構成にします。

 

まずは1社目。

【2013年4月~2015年9月:飼料(家畜のエサ)メーカー営業】

農業大学卒業後、新卒で入社した会社です。

当時、農業・食品系中心に面接受けていたんですが、受かったのが全て地方本社の農業系のメーカーでした。

・名古屋の飼料メーカー(家畜のエサ)

・北海道の飼料メーカー(家畜のエサ、種苗)

・群馬の種苗メーカー(種苗、農業資材)

これはもう、神様が「一回、東京を出ろ」と言ってるのかなと思いまして。笑

その中でもよく見えた名古屋の飼料メーカーに決めました。

その会社は一部上場企業で業界3位の会社でして、入社前の肩書やイメージは悪くありませんでした。新卒の時って「メーカー」とか「一部上場」神話みたいなのありませんでしたか?私の中にはめっちゃありました。笑

新聞に社名と株価が載っているってのが何とも気持ち良いというか、謎の大手っぽい安心感みたいなのがあったんだと思います。

 

入社して2ヵ月ちょっとは名古屋の社員寮に住んで新入社員研修を受けました。

同期と2人1部屋住まいで、寮に住んでいる同期は計4人。寮生以外の2人と合わせて計6人で楽しくやってました。思い起こせば、この会社で楽しかったのは唯一この期間のみでした。(笑)

本社研修の他に、家畜のエサ工場の研修、研究農場での研修などなど。研究農場ってのは鶏、豚、牛なんかの世話と生態についての勉強ですね。

 

研修も終盤に差し掛かり、いよいよ運命の配属発表。

この会社は北は北海道、南は鹿児島まで生産工場兼営業所が点在してまして、どこに行くか分かりません。とは言え、ある程度勘案して関東になるのかなーと漠然と思ってました。

「S君、八戸!」

「は、はちのへ、、?」

「はちのへ」と読みます(読めない人も結構いる)。

青森県です。岩手ではありません。

行ったことも、縁もゆかりもなく、吉幾三の「オラ東京さ行くだ」のイメージしかありません。

ティーボーイの私は激しく絶望しました。

家相手な商売な訳ですから、ある程度の地方に行くとは思っていたものの、、いざ通達されると実際めっちゃショックでした。

何といいますか、頭では覚悟してたつもりだけど、心が激しく拒絶してる、みたいな感じですかね。

 

で、青森に飛ばされます。

仲良かった同期は鹿児島、愛媛、岡山に散り散りになりました。青森から一番近い同期が岡山、、どういうことやねん。笑

さておき、八戸は思っていたようなド田舎ではなく、コンビニ、イオン、ニトリ、さらにはドンキまであり、生活必要物資を買うには困りませんでした。

ですが、いかんせん青森。知り合いもいませんし、「東京帰りたい」の気持ちで日々っぱいでした。

 

仕事としては営業で牛担当。肉牛、乳牛用のエサのセールスです。

仕事内容自体はそこまで大変ではありませんでした。

牛の家畜のエサ=定期購入になり、一度決めるとなかなか変わりづらいんですね。

なので先輩から引き継いだ得意先を回ったり、回らなかったり。いずれにせよ結果はあまり変わらず、他社にとられもせず、牛がいる分だけほぼ毎月消費は同じ。

得意先1件だけ寄って、あとは近くの温泉入って帰ってくる。こんな日も珍しくありませんでした。笑

ただ、楽=楽しいじゃないんですね。全然楽しくなかったです。

仕事頑張らなきゃ!という気持ちはあるんですが、何というかだるい。

会社の方も良くしてくれる方は多々いたのですが、ともかく「東京帰りたい」が強すぎて、青森生活でのやる気があまり出ない感じです。

今思えば、やる気がないのか興味が持てなさすぎなのか、仕事に活かそうと業界誌とか読んでも不思議と全く頭に入ってこず、脳ミソが異様に低スペックになってました。

ただただ、そのうち慣れる、修行だと思いつつ日々を過ごしました。

そんな状態だったので、知らず知らず自分の自己肯定感は下がっていってました(が、当時はその事実に気付かず)

 

そんなこんなで1年が過ぎ、変化が訪れました。(悪い方の笑)

部長(八戸のトップ)と、牛チームの課長が人事異動になったのです。

部長は悪くて嫌なやつ、課長は人の気持ちが分からず人望がない人でした。

まず、新部長になってから社内接待のゴルフや飲み(半強制、行かないとハブられる)が増えました。そういった場でも教育って言って若手を叱るんですが、しっかり金は割り勘なんですよね。半分憂さ晴らし的な会合に、怒りとストレスが溜まってきました。

また、様々な事が起因し、八戸全体の業績が落ち込み、彼らからのプレッシャーが徐々に強まってきました。上からのプレッシャーはあるのですが、相変わらずやる気がでません。頭では「頑張らないと」と思っているんですが、心がもうダメダメです。

そんな自分に嫌気がさしてきました。

加えて、新たに引き継いだかなり厳しめのお客さんがいたんですが、その方が私を見抜きました。

「こいつはやる気がない」という事を。

細かな経緯は忘れましたが、私立て直し?の為にそのお客さんの農場で1か月の修行が決定しました。泊まり込みで朝5時~夕方5時までの農場作業です。

1か月間、研修自体は耐え抜いたものの、「会社やお客さんからの期待に自分は応えられていないし、今後応えられそうもない」という事が自分の中で明白になり、申し訳なさ、情けなさを感じ、自分を責め、お先真っ暗な気持ちになりました。

 

で、ある日ついにこの考えが舞い降りてきました。

「会社辞めて東京帰ろう」

今まで会社辞めるという選択肢が思い浮かばなかったわけではないですが、辞めるにしても石の上にも3年を信じ、3年はやるという何となくのビジョンがあったのです。

が、もう無理です。

一度舞い降りたらもう止まりませんでした。

課長に話をし、辞表を出し、、話はトントンと進みました。

ここから逃げれる!という喜びもありましたが、それ以上に「くじけた」「逃げた」みたいな自責の念が強く、自分の中の負の感情は更に高まりました。

職場の人間からの「なんで辞めるの?」「残念だ」の声がまた辛かった。

彼らからすると、田舎で一部上場企業、給料もそこそこ貰えて良い暮らしができており、それを思って辞めてないわけで。なぜその暮らしを捨てるのか?みたいな感情が多少なりあるように感じました。

今思えば、私は東京出身で彼らとは状況は全く違う訳で、鵜呑みにする必要もなかったのですが、弱ってた自分は言われた以上に自分を責めました。

また、「一生勤め上げるのが当たり前」「石の上にも3年」「つらい事も勉強」みたいな考えの人が多く、ほぼそれを実践してきた人ばかりだったので、私の選択が異端で許容しがたい、許せない、みたいな感情も多少なりあったように思います。

まぁ仕事を決めず東京戻る訳なので、純粋な心配部分もあったかとおもいますが。

青森いながら東京の会社に満足いくような転職活動って普通に無理でしょ。笑

 

とても長くなりましたが、1社目はこのようにギブアップに近い形で退職しました。

辞めるまでの微妙な期間もどんな顔していたら良いかわからず辛かったです。

 

なお、2年半で失敗含め学びもかなりあったのですが、

当時自分の中では「何も学べず、ギブアップした」という十字架を背負い、弱って東京に逃げ帰った感じでした。

 

続きはまた書きます。

では

 

~20200512追記~

読み返してみて、青森の私生活について全く触れていなかった事に気づいたので、追記しときます。

まず、青森行ってすぐ車を買いました。

東京とか一部の地域以外、日本の多くの地域では不自由なく暮らすには車が必要です。

自転車も買ったけど3回くらいしか乗りませんでしたね。東京の自転車感覚で気軽に車のってました。

男の軽自動車はダサい。私にはイマイチ分からない感性なのですが、会社の人のほとんどがこの感性を持っていました。(これに影響されたわけではないですが、自分は中古の普通自動車を購入)

また、会社のおじさん達の話、仕事以外で重要視している事は飲み・車・女性関係・ギャンブル。あとたまにゴルフ。ほぼこのパターンしかありませんでした。

まあ、田舎のおじさんなんてこんなもんかもしれませんが、毎度の同じパターンに私はとても飽きてました。

会社のおじさん達達との価値観の差、日々ちょっと無理して話を合わせるのに、自分の中の何かをすり減らしてた気がします。

 

会社以外だと土台青森在住の友達がいないので、スノボサークル的なもの入ってみたり、ネットを使ってマッチングアプリで出会ったりしてました。

たまに会う人、良い人もいたのですが、

東京帰りたい病を発病し、自己肯定感が低かった当時の私は、心をうまく開放できず、一緒にいてもあまり楽しくなかったです。

良い感じになった女性もいたのですが、自己肯定感が低すぎて「人を幸せにするなんて自分にはできない」と思って自分から合わなくなりました。

そんな自分がまた嫌になり更に自己肯定感が下がるという負のループ。

ちなみにその子は津軽弁のギャルだけどいいやつでした笑笑

 

その他、土日のパターンといえば飯食う、飲み行く、ゲオでDVD漫画借りる、地方の大型イオン行く、ドライブ行くなど。。

その時の精神状態からか、やはり何やってもイマイチ面白くない。

ちなみに地方の大型イオンですが、地元の人は大体「しもジャス」と呼んでました。下田にあり、昔はジャスコだったので「しもだのジャスコ」⇒「しもジャス」。

「しもジャス」いくと大抵会社の人と一人くらい出くわします。笑(遊びに行くところの選択肢があまり多くない被る訳です)

 

なお、連休になると待ってましたとばかりに地元東京に帰ります。

地元東京の友達に上記のような状態の話をするんですけど、まあ伝わらないんですね。状況違いすぎるので辺り前なんですけど。

「こんな状態だけど、昔からの友達なら分かってくれる、共感して欲しい。」という気持ちがあったんだと思います。共感してもらって、「自分だけがダメなわけじゃない」と自分に言い聞かせたかったんですね。

ですが、話をして伝わらない、共感されないと、「自分だけがダメなのか」と自分を責める訳です。これまた負のループ。笑

 

とまあ、私生活はそんな感じでした。

改めて思い起こし、文章におこしてみると、超病み文書になってしまいました。

やはり中々に病んでいたんだなあとびっくりします笑

 

ただ、こんな状態を経験したからこその学びは多くあります。

が、それはまた別記事でやろうかな~と思います。