差別について本気出して考えてみた

コンビニ人間』という書籍をご存じだろうか?
芥川賞を受賞したことでとても話題になった本だ。
内容は超ざっくり、コンビニを舞台にマイノリティな主人公の視点から、世間やマジョリティのオカシさが描かれているというもの。
私にはない視点だったので、とても新鮮で面白いと思った。

読んだのは数年前だったが、先日『コンビニ人間』についての感想について書かれたこの記事で衝撃を受けた。
https://anond.hatelabo.jp/20200607142545

~記事の抜粋~
ネット上での感想は、「普通が何かわからなくなる」とか「こんな人間怖い」などと言った、自分とは違う存在に対する存在に対する感想がメインだ。
だが、私は全く別の感想を持った。「ただの日記じゃないか」。
どこにも不自然さや意外性を感じなかった。
コンビニ人間」は本当に私の日常を書いていた。人に合わせて上手くやっていると思ったら変人扱いされていることに気付く瞬間。
私が招かれない普通のイベント。
私の異常性を許容してくれていると思っていた人から突然つきつけられる異常性への嫌悪。
全て日常だ。私が日記を書いていたら同じ内容になっていただろう。
だから私はこの本の価値がわからなかった。
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先述の通り、私にはない視点で世間・マジョリティのオカシさが描かれているから面白いと思った。
だが、この記事を読んで振り返って考えた。
本当にそれだけだろうか。
実は、無意識にマイノリティーな主人公を見世物的な感じで楽しんでいた部分もあるのではないか。
また、無意識に主人公との比較で自分はマジョリティーであると安心してはいなかっただろうか。
正直、そんな部分を意識していた訳ではないのでイマイチわからなかった。
自分の感情なんてものが一番曖昧で分析が難しい(少なくとも私は自己分析が苦手だ)

さておき、この事がきっかけで差別について改めて考えてみた。
結果、差別はある種人間の性であり世の中から失くすことはできないという結論に至る。
悲しい結論だが、私が差別したいがゆえに出した答えではない。

まず、『お笑い』と差別について考えてみた。
初球から変化球投げたように思われるかもしれないが、かなりこの2つは密接な関係である。
『お笑い』には色んなタイプがあるが、要素として差別的なところが多分に含まれ、またマイノリティなところが面白さに繋がっているケースは多い。
埼玉ディスりなどライトだがその典型。
マツコデラックスはデブのオカマだから面白い=見世物的な面白さがあるのだと思う。恐らく、無意識的に。
また、子供がハゲ、デブ、シンショウといったワードがやたらと好きなのは、ある種原始的で人間の根源的な欲求に基づいているのではないか。

次に、人間は家族とか同郷とか、何かと『くくり』を作りたがる事について。
これは間違いなく区別ではある。
何かしら『くくり』をつけて他者と区別するのは人間の本能なのだろう。
区別が人間の本能であるとして、区別された側の人間が『区別されたとマイナス的に捉えた』時、それはもう差別なのではないか。
口に出さずとも、そう言った瞬間は顔や目元からも読み取れる。

つまり、いくら道徳の勉強をしようと、人間の本能でもあるこういった感情が世からなくならない=差別はなくならない。ということになる。
だが、差別により生命や人権を著しく損なうケースを減らす。なら可能性はあると思う。

私の友人からの出た意見。
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人間は人間である前に動物である。
差別が潜在的反射におこる仕組みに対して、道徳とのバランスがとれていない。
自分におこる反射に対して俯瞰的にとらえ、人間として正しい思想行動を示す事が大事なんだと思う。
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心理だと思った。
上記を勉強するのが、人間というものに基づいて本気出して差別を考えてみる、に一番近いように思う。
だが、このような議論はあまりされず、表ヅラ『差別はよくないのでやめましょう』といいことだけ言っているだけな気がする。
これはなぜか。もっと頭のいい連中が考えてもよさそうなのに。
説として、マジョリティー(大多数・差別をする側)のトップレイヤーが差別を利用して利益を得ているからなのではないか?というのがあがってきた。
分かりやすい例がドナルド・トランプ
あそこまで分かりやすくはないものの、差別があることで実は得している上級国民が多数いるので、本気出して考えてみた説が普及していないのではないだろうか。
この陰謀論説はこれ以上は広がらないので終わりとするが、絶対にあると思う。

最後に、世の中全体は変えられないが、マイノリティーを逆手にとり武器にして活用して生きること。
いろんな劣等感は自分の中ではぶっ壊せるのではないか。という可能性について論じてみたい。

武器として活用している事例だが、分かりやすく言うとマツコデラックスはじめとしたオカマタレント、ゲイタレント。
精神・身体的なところで悩みはつきないと想像する。一方、仕事としてはマイノリティーを武器にして、差別と笑いの理論を上手く使って、あそこまで有名になった部分もあると思う。
マツコが普通のヤリチンイケメンだったら全然説得力ないしおもしろいとは思わないだろう。

また、昔バイトの伝手で観戦した、ドッグレックスという障害者のプロレス団体についても触れてみる。
結構人気があって、脚のない方vs腕がない方の試合、障害者vs健常者の試合など、内容は非常に衝撃的だった。
皆さんどう思うだろうか?可哀想だろうか?
可哀想と思うのはそれこそ差別である。
障害者自身が好んでプロレスを興じて何が悪いのか?
型にはめて、障害者は守られるべき存在であるという前提があるから可哀想だと思うのだ。
私も正直見る前はそう思っていた。だが、実際目の当たりするとカッコヨサに痺れた。
障害者が殴り合い=普通じゃない、なんだか可哀想。こんなステレオタイプを自ら破ってきてる彼らがとてもクールに見えたのだ。
社会的弱者で守られるべき存在だと型にはめらがちな彼らの反骨精神、ロックンロール。
彼らと比べるのも失礼だとは思うのだが、どんな人間にも劣等感や気にしていることはある。
当然私もある。
それを気にして落ち込んだままなのか、自分や回りの目に反逆して生きるのか。
彼らは後者としての生きざまをリングで体現しているようであった。
また、前者はより弱い立場を区別・差別するに陥りがちな気がする。
対して後者の人間は自分・世の中と向き合い、抗い、少なくとも『生命や人権を著しく損なう』レベルの差別はそうそうしないと思う。

『差別はある種人間の性であり世の中から失くすことはできない』と記載したのだが、皆が反骨精神をもってマイナスに抗った結果、上記のようにマシにすることはできる。
そしてその結果が、陰謀論で利益を得ている輩にたいしての最大の反逆になるのだと思う。