転職について➆

シリーズです。
最初はこちら⇒転職について➀ - すーやん気ままブログ

2度目の転職を経て現職に入社し、今の私に至るまでを綴ります。

 

【2018年10月~現在:IT会社((交通系アプリ)】編

面白そうだし、今後の成長が楽しみだし、何より前職より好条件で現職に入社できた私。

人間関係も良好そうですし、OJT研修も比較的しっかりやってくれるし、入社前イメージと大差なくかなり安心感がありました。

東京+当時実家暮らし+前向き転職という超良い状況でしたが、ゼロから人間関係を築く必要がある環境に変わるという事はそれでも気疲れがすごく、最初の3週間くらいはただ研修してるだけなのにやたら疲れました。

環境の変化というのは相当なストレスになっているという事をしみじみ実感できました。

気疲れはありましたが、IT会社的な文化は割と前職と同じような感じだったので、そこそこストレスなく馴染めました。

 

1カ月程でなんとなーく分かってきて、早く担当会社を持ちたいと言う焦りに変わっていきました。

自分の場合、自己責任である担当会社を持って、色々やってみないとちゃんと自分の身に付かないからです。

2ヵ月目はそんな感じでモヤモヤしつつ、隙あらば先輩に同行させてもらう日々でした。

全社的に主要エリア毎にキャンペーンを打って一気に刈り取ろうという流れの中、入社3か月目(2018年12月)に担当エリアが決まり、いよいよ本格的な営業活動を開始。

何度か先輩に同行頂いた後、単独営業にも行くようになり、徐々に現職の営業に慣れていきました。

 

その後担当会社も徐々に増えてゆき、2019年2月頃、業務量とやりがいがめちゃくちゃ良いバランスとなり、ついに社会人人生きっての超安定期が訪れました。

精神的にも安定していて超ハッピー。

マリカーで言うとスター獲得状態、スマブラで言うとハンマー獲得状態です。

その時期に実家も出て、神奈川にて一人暮らしも再開できました。

 

ただ、当たり前ですが最強期間は永遠には続きません。

2~3か月ほどでその状態になれてきて当たり前になった事に加え、仕事量にも変化が訪れました。

2019年GW明けから東京の超主要会社を任され、2019年秋~2020年春までの新規サービス導入に奔走する事になります。

残業がもともと20~30時間くらいでかなりホワイト状態だったのですが、徐々にオーバーワーク気味になってゆき、夏以降は残業時間が80時間を超えてきます。

平均残業時間は業界や会社によって大きく違うと思いますが、この当時は会社の中でも10本指に入る残業状態でした。

私の社会人人生でも最も長時間労働していた時期となり、平日家にいるときはほぼシャワー浴びる、寝てるくらいでした。

また、平日中にタスクが終わらず、土日もどこかしらで仕事をしてタスク消化に努めており、疲労がたまっている状態が慢性化してきました。

心の余裕もなくなってきて、「なんで俺だけこんな大変なんだ」という思いも芽生え始めます。

余裕のなさから、同僚に優しくできてなかったかもしれません(だとしたらすいませんでした同僚の皆様)

 

 

この状況について先輩に小出しで相談していたのですが中々状況は変わらず。

10月末、いよいよ「これ以上はホント無理!」という精神状態に差し掛かったころ、某本部長がこの状態に気づき「ダメになる前にちゃんと相談しろ」と言われます。

この言葉で決意した私は

部長+GM+先輩に『ズバリ、営業担当が多くてもうきついのでご相談させて下さい。。』という書き出しのチャットを送り、ついにヘルプを出します。

ついにやってしまった!

チャットを送ったのが金曜日。月曜日に口頭でも話しなければいけませんが、何を言われるか未知数とビビっていた私。

申し訳なさげに部長に「すいませんチャットの件なんですけど。。」と切り出すと、

「言わなくてもわかっているよ、ほんとお疲れ。皆でなんとかしよう」的な返事が返ってきました。

安堵と有難さで泣きそうになりました。

すぐにGMと対策ミーティングが練られ、私より優秀なセールス一人をスーパーヘルプにつけて頂けることになりました。

11月残業時間はこのスーパーヘルパーがいて10月時と同程度。

逆に言うと何も言っていなかったら更に残業が増え、いよいよキャパオーバーで精神的にぶっ壊れていたかもしれません。

今思えば結構危なかったと思います。

このタイミングで言えて本当によかったですし、ちゃんと相談に乗ってくれる環境に本当に感謝しました。

また、残業時間は同程度でも、「一人で抱えているわけではない」という状況から精神的にはめちゃくちゃ楽になりました。

 

そもそも、何でそんなヤバくなるまでヘルプをだせなかったのか。

それは、私が『上長に「もう無理です」「仕事減らして下さい」と伝える事』=言ってはいけない事。ダメなやつの烙印が押される。恥ずべき行為である。

という考えを持ち、相談するのを恐れて、中々切り出すことができなかったからです。

これは1社目のブラックな部長・課長、及び相談にならない2社目のバカ部長により刷り込まれた価値観だと思います。

ちゃんとヘルプを伝えて対応頂いたこの経験が、旧来の私の価値観をぶっ壊し、健全な考えを持つことができました。

今は、セルフマネジメントとしてもヤバくなる前にちゃんとヘルプ出すべきだと思えまますし、業務タスク分配もマネジメントの大事な仕事なのでそれを聞いて頂くのも上長の大事な勤め。

また、ヘルプ出したらちゃんと答えられるのが健全な組織であるとも思えるようになりました。

 

 

11月末に会社の半期を振り返る納会的なものがあり、社内MVPを数名選出するのですが、なんと有難くも私が選ばれました。

選出のベースは全社アンケートによる他薦。

頑張ってたことが他の人にも見えていたんだなあとしみじみ感じました。

また、昇給における評価も中々によく、

オーバーワーク分は自分の中ではしっかり報われましたし、「頑張った分だけちゃんと評価して頂ける会社である」という安心感を持つことができました。

 

その後、2020年明けは東京の超主要会社のサービス導入も落ち着いてきて徐々に残業が減り、いよいよ精神的健康を取り戻しました。

3月末からはコロナで一時的に暇になりましたが、2020年6月現在はほぼ正常稼働に戻り、ちょうどよく忙しい感じで楽しく仕事ができてます。

 

長くなったので今回はこれまで。

次回、本シリーズの総括として、現在の私の仕事観・転職観についてを綴ってラストにしたいと思います。

では。

転職について⑥

シリーズです。
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2社目への危機感と「もっと高給のイケてるIT会社で人材価値を高めたい」という想いから転職を検討。
28歳、2社目の在籍期間2年5ヶ月にして2度目の転職活動を開始した所からです。
なお、基本前向き転職ということで今回は挫折や失敗話はありません!(失敗話期待されて読まれる方向けの事前警告。笑)

【2016年2月~2018年9月:IT会社編(決済システム)③】

2度目の転職なので流れはバッチリ分かっていた私。
リクルーターとの面談、前回活動時の職務経歴書を修正、求人ポチるまではかなりスムーズに事が進みました。
当時希望した求人条件はざっくり下記2点。
①現職より規模感が大きいIT会社
②想定年収が現職の+100万以上

②について補足。
2社経験し、昇給や賞与というのは実際入ってみないと分かんないもんだな~と実感。
また、社内文化や部署の人間関係も入ってみないと全然分かりません。
対して、給料は基本嘘つきません。
「想定賞与~か月」みたいな不確定要素も多少ありますが、少なくとも基本給は間違いなく提示された通り。
28歳働き盛り、地固めしたい2度目の大事な転職なので、この機にできるだけ年収アップしようと考えました。
当時転職市場は売り手市場でしたし、現職がさして給与高くなかった為、該当するIT求人はそれなりにありました。

書類作成、面接、SPI、、どれも苦でなかったですが、前回転職と違って大変だったのは仕事と転職を両立させることでした。
前回は自由度高いフリーターだったので時間はシコタマありましたが、普通に働きながらだとやはり大変。
求人ポチる(=書類応募)まではいいのですが、書類通過した会社の面接準備するのが時間的に結構大変でした。
(仕事終わった後、家でやってました)

ただ、恐らく他の人より比較的楽だったのは面接日程の調整です。
私は外回り営業で、大して行動管理もされてなかったので、『外回り言ってきます~』で面接受けて帰ってくる、みたいな事も余裕でできました。
というか約1ヶ月間、外回り営業と称してほぼ面接しかしてませんでした。笑
ここは外回り営業の特権ですね!
ちなみに私の会社は『とにかく営業はノルマ達成すればOK。細かいこと言わん』という風潮でして。
ほぼ客先には行かない1ヵ月でしたが、前月の営業貯金もあったので、その月のノルマは普通にクリアできました。
何が言いたいかと言うと、自分の中では気持ち的には『問題なし』で、罪の意識はほぼなかったと言うことです。笑

いろいろ求人ポチってみて、実際に面接したのはこんな感じの会社です。
・現職より大手の決済代行会社の営業
QRコード決済系営業
ECサイト加盟店営業
・チャットボットシステム営業
交通系アプリ営業
などなど。。

うち、下記3社から内定を頂きました。(内定順もこのまま)
楽天楽天ペイ営業)
②チャットボットシステム営業
交通系アプリ営業

①に関しては契約社員だった、目標給与未満だった、体育会系でブラックな感じだった、の理由で辞退。
楽天ってTOEICで700点以上でないと正社員になれないんですね。
英語力MAX時期の高校3年の大学受験期から9年、英語力ダダ下がりでほぼノー勉で挑んだ私。
単語が全然意味わからず、1/3くらいをエンピツコロコロで対応したので当然っちゃ当然の結果です。笑
入社してからも定期的にTOEICテストはあり、どっかで700点とれば正社員昇格は約束されているのですが、それもそれでダルかった。
あと、楽天という出来上がった組織の中で1から成り上がるのは相当キツかろうという思いもありました。
だったらもう少し小さな、これから大きく伸びそうな会社の方が夢があるかなと思いまして。

②と③が想定給与に大きな差はなく、ちょこっと悩みましたが結局③に決めました。
➁のネックとしては、同業他社もかなり多く、これからの業界覇権がどうなるか未知数なこと。
また、基本給+営業インセンティブというパターンの給与体系であったこと。
対して③はその手のアプリでは業界トップ、親会社がとある業界の超大手という安心材料がありました。
加えて全額固定給の形態(年俸÷12ヵ月が月給)であったことが決め手となりました。
(『年収が現職の+100万以上』が絶対的となるし、現職で感じている営業インセンティブのストレスがなくなる)

そんな訳で、次の会社が決まったら後はもうトントン拍子です。
即効辞表出し、お世話になった人たちにはランチや飲み会で報告したり、営業担当の引き継ぎもしたり。
転職先を確定した1.5ヶ月後、2社目の会社を退職しました。(うち2週間くらいは有給消化)
なお、1社目の青森おじさん達と違い、転職についての考え方も当たり前のものという感じで反発もなく、気持ち的にとっても楽でした。
なので楽だったのでこの時期の記憶はあんまりないです。笑

そんな訳で転職シリーズ、次回最終章!(の予定)
3社目(=現職)に入社~リアルタイムの私までをつづり、私の仕事観・転職観についてまとめてみたいと思います。
では。

転職について⑤

シリーズです。
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六本木のIT会社に転職し、1社目とのギャップは色々ありましたが、転職して良かったと思える日々を過ごします。
仕事に慣れて月日が流れ、更に3社目に転職しようと決めるまでの経緯をまとめていきます。

という訳で
【2016年2月~2018年9月:IT会社編(決済システム)②】
スタート

一応、2社目の仕事内容なども改めて紹介しておきます。
販売するのは「お支払いシステム」。
月額料を払うとクレカやコンビニ払いなど色々一括で導入できるというもの。
導入するのはECサイト、有料WEBサービスなどの運営者、ジムやエステなどなど、、言うなれば現金以外で料金回収したい事業者全てです。
「毎月月末までに○件獲得」みたいな分かりやすい目標のもと、提案~契約完了までを対面、メール、電話で進めていく感じです。

社内の人間関係も基本的には良好で、週一回は先輩とかと楽しく飲みに行ってました。(六本木だけど基本格安居酒屋。笑)
土日は地元、高校、大学などの友達と遊びにいく。
精神衛生上かなり良い状態だったので、青森時代の残っていた闇もどんどん消えていきました。

2社目生活2年が過ぎ、この会社で働き続ける不安、不満が徐々に顕在化していきます。
また、転職しようと思う出来事も起こります。
下記でいくつか紹介します。

イケてる会社にいきたい
IT会社は有形商材の業界に比べて、会社や人材サイクルが早く、浮き沈みが激しいです。
無形商材のWEBサービスは代替するものが出てくると、すぐに切り替えができてしまうからだと思います。
なのでITでイケてない会社=すぐつぶれるかも?という不安に直結するのです。

キャッシュレスの波に乗って、決済代行(=お支払いシステム)業界自体は成長しています(前年比売上=100%以上)
ただ、決済代行=卸業者・代理店みたいなポジション。
直契約が増え、卸業者・代理店は淘汰されていく未来は容易に想像できました。
業界上位のソフトバンクGMO系列の決済代行会社は、旧来の卸業者・代理店業務に留まらず色んなことにチャレンジし、進化スピードが速かったです。
対して、当社は大手には勝てないのでニッチな業界を比較的得意としていましたが、それも未来がある感じはあまりなく、世間的に言うと結構しょーもない業界。
また、多少新しいことにチャレンジはしているものの、大手と比べると超ロースピード。
大手にどんどん差がつけらて、業界の進化の波にのれずに淘汰される予感しかしませんでした。
なのでITで働くなら、もっとイケてるところ=最先端の会社、に行きたいという気持ちになりました。

キャリアを積みたい
上記と似た感じですが、長年働いてもし会社がつぶれた時、自分のキャリアで他社にちゃんと転職できるか?通用するか?を考えた時、だいぶ不安な環境でした。
業界的な話は割愛しますが、お支払いシステム=ペイメント業界の中ではリテラシーが低め(正確にはニッチな業界リテラシー頼り)の会社でした。
ITの変化の波にも乗れるよう、もっと成長できる環境に行って自信の価値を高めたかったのです。

会社もそうですが、自分のいた部署、特に部長の影響が超大きいです(ここからはほぼ部長の悪口!)
部長は不動産業界出身の40代女性独身。
不動産の営業としては優秀なのかもしれませんが、この業界のマネジメント職としてはかなり低レベルで頭悪かったです。
IT=変化が大きい業界なので、柔軟性が求められます。
ところがこの人は柔軟性ゼロ、自分が成功した過去のやり方を押し付けてくる人でした(このパターンの人ってどこの会社にもいますが)
だいぶ業界も変わっているので過去のやり方では上手く行かない。
で、色々相談してみるんですが相談にならないんですね。報・連・相なんていいますが、『相』にならないんです。NAVERまとめみたいなテンプレコメントが帰ってくるだけ笑
業界の変化についてあまり勉強もしてない人なので、多分部長も大したこと言えなかったんだと思います。
ただ、新しいことしようとすると明らか期限悪くなるんですよね。。
で、部長に媚びへつらって案件のおこぼれもらっているやつが評価されるという。。
くそか。笑

環境のせいにするのはあまりよくないとは思いますが、成長を促進される環境ではありませんでした。
部長は反面教師はあっても、尊敬とかの前向きな感情は起きませんでしたし、そんなやつに気を使うのも無駄に思えてきました。
何よりそんなやつを部長に置いている会社もだいぶセンスないなと思いました。(ちなみにその他の人事も相当謎でしたが)
改めてまとめると、会社・組織のレベルが到底高いとは思えなかったという事です。
このままこの会社に居座って30代過ぎて転職、はかなりキツいなかぁと。
であれば早いうちにもっとレベルが高い環境下で働いてキャリアを積みたいなぁと考えました。

給料が低い
めっちゃ低い訳ではありませんが、自分感覚では『実家暮らしであれば貯金貯まるけど、1人暮らしするには貯金はあまり貯められないレベル(住めなくはないけど)』ってとこでした。
なので1人暮らしも見据えて経済条件向上しようと思いまして。
仲のよい6個上の先輩(当時自分28歳、先輩34歳)から給料の話をよく聞いてたのですが、思っているより全然低くて、将来ないなーと思いました。
また、その先輩からも転職を勧められてました。笑

あと、給料安定させたいというのもありました。
というのは、当時は営業ノルマをクリアした時にインセンティブってのがありまして、これ込みでやっとそこそこの給料でして。
給与はインセンティブ頼み、逆にクリアできない月にはインセンティブがゼロとなりかなり薄給になります。
流動的で安定性に欠けており、インセンティブ貰えた時の喜びよりもインセンティブ貰えない時のストレスの方が大きく、安定的に貰える給与体系がいいなーと思ってました。
月末ノルマのインセンティブ頼みの給与体系だと、月末だいたいブルーなのも嫌でした。

仮想通貨失敗
給与に満足いかなかった私は副業を考えました。
その一貫で、2017年仮想通貨バブルに乗っかって仮想通貨購入。
当時の上がり方はほんとにエグく、試算価値が平気で5~10倍くらいになっており、絶頂期に売り抜けていれば利益100万はいってました。
まだまだいける!と調子にのって買い増し。
ところが、2018年頭にコインチェックという取引所の粗相によりバブル崩壊、価値がだだ下がりするが口座凍結で換金できない自体に。
口座凍結が解除され、数十万の損失でしたが売却してしまいました。(あまりに精神衛生上よくないので)

・爆上がりするものは爆下がりする
・激しめの投資は、自分の資産の無理のない範囲内で行う
当たり前のことを学んだ私は、『多分、投資より会社の給与をあげるほうが楽』と考えました。
で、給与を最も効率的にあげるにはやっぱり転職だな~となった訳です。

社内恋愛の失敗
社内の同僚と一時的に男女の仲になったのですが、その子が別の会社の男とも関係がある疑惑が発生。
というか現場を目撃してしまいました。笑
当然、三角関係で揉めました。
その子の提案で3人で面会することとなり、その子が『もう一人の男との関係は断ちます宣言』をするという、くそ意味わからん展開に。笑
男も『男らしく関係をちゃんと絶つよ』って話になりました。
が、全くの大嘘でした。
やはり向こうの男との関係は続いており、その子を問い詰めるたら私は捨てられ、2人は付き合ったすぐ後にデキ婚!笑
ざっくり言うとその男は本命彼女がいたんですが、その子が男を略奪するための当て馬、それが私だった訳です。笑
ワンフロア80名くらいの会社で、広くないのでどうしても2人が目に入ってしまいます(というか女の子とは席がすぐ近く)
私に対して不義理を働いた歳上の2人が、『私達まっとうに幸せになりました』みたいなツラしてノウノウと生きている。
「こいつらぶち殺して私も死のう」と割とガチ目に考えてました。
湧き上がる殺意を抑え、とりあえず男とは廊下などですれ違うたび、頭の中で全力でラリアットかます日々。笑
地獄の日々は半年続き、失ったものを埋め合わせようと毎週合コンやら街コン行ってました。
結果的に半年後に彼女ができました。
彼女のおかげでゾロVSミホーク戦並の傷は癒え、地獄は終わりました。

ただ、未練ではありませんが、気まずさと2人を見るたびに出てくる負の感情はどうしても拭えず。
この感情が転職考える1割くらいの理由にはなっています。

そんなこんなで、在籍2年5ヵ月で『とりあえず活動してみて、良い会社があれば転職決めよう』と決意。
再度転職活動開始し、1ヵ月ほどで内定を頂くのですがそれはまた次回記事で書くとします。
では。

転職について➃

シリーズです。

最初はこちら⇒転職について➀ - すーやん気ままブログ

 

新卒入社の会社で青森県配属になり闇の2年半を過ごしたのち、ギブアップして東京の実家に帰省。

リフレッシュ&フリーターの4カ月を経て、2社目である六本木のIT会社に入社した所から。

 

という訳で

【2016年2月~2018年9月:IT会社編(決済システム)】

スタートです。

 

この会社は「決済代行」という業種に当たり、ネットショップなどのホームページでクレカ・コンビニ払いなどができるようになる「お支払いシステム」を提供していました。

私はそのセールスとしての採用でした。

心の病み上がり(闇あがり?)に加え、初めての業界、初めての中途入社。

当然同期もおらず。めちゃくちゃ不安でしたが、当時社会人3年目だった私はいわゆる「第二新卒」的なポジションで、色々1から教えて頂けました。

 

ただ、業界知識はしょうがないとして、私は3つの壁にぶち当たりました。 

言葉の壁

なんつーか、IT会社ってやたらむやみに横文字多くて。同じ日本語なんですが、なんか分かりづらくて最初とても戸惑いました。

まあ冷静に考えると青森の農家相手の会社から六本木のIT会社に変わったので無理もありませんが笑

例えば「アジェンダ」とか笑。

これは普通に「議題」で良くね?って思うんですけど、細かなニュアンスが違うんですかね(誰か知ってたら教えて下さい)

 

メールの壁

前職でのお客さん(農家)とのやりとりは基本電話、たまにFAX(でも結局「FAX送りましたよ!」と電話もする。笑)

相手からすると「メールって何だべ?」くらいの世界です。笑

社内でも時々使う程度で全然メール文化がなかったのですが、転職先はIT会社なのでそうも言ってられず。

当然メールはバンバン送ります(社外=メール、社内=メール・ビジネスチャット半々といった感じでした)

慣れてない私はメール1つ1つ打つのが遅いし、文章ぐちゃぐちゃで分かりづらい。

お客さんにメール送る前に上司に下書き送ってチェックしてもらうのですが、訂正の嵐。

とくかく慣れるまで苦労しました。

  

文化の壁

メールやビジネスチャットも文化の一つなんですが、全体的に考え方が前職と違くて、抵抗があったり、慣れるまで手こずりました。

例えば「大事な話こそメールしろ」っていうのは前職にはありませんでした(報告書とかは作ってましたが)。

経緯がちゃんと分かるようにログを残すため、大事な事ほどメールも打て。そのうえで話せよ、という考え方です。

「対面してんのに2度手間で何かめんどくせえな」と思ってた私は、当初いきなり口頭でいくんですが、嫌がられることが多かったのでしょうがなく郷に従いました。

まあ後々考えると、相談される側は文書もあった上での話の方がわかりやすいし、相談者が更に上席に確認を仰ぐ場合にもメールの方が都合がよいのだと気づきました。

超当たり前の話かもしれませんが、1次産業メーカーの1社目は全然そんな雰囲気ではなかったので私にはその当たり前がなかったんですね。

 

また、「営業が強いか、開発・製造が強いか」みたいな部分もかなりギャップがありました。

前職は営業が強かったので、あまりに無茶な注文でなければ製造部門には意見通る環境でした。(営業部の壁を突破できればあとはスムーズにいく感じ)

青森支店のトップをはじめ、人の人間が営業上がりだったからなのか、いわゆる古い業界のメーカーあるあるだったのかもしれません。

ところが、この会社では開発部門やオペレーション部門が結構強く、営業の意見は中々すんなりとは通らない環境でした。これはIT会社あるあるかもしれませんし、営業部長の方針かもしれません。

ともかく、他部門の承諾を得られるように話を進めるようにめちゃ考えるようになりました。

 

苦労した点もありましたが、結果すごく勉強になりましたし、良かったギャップの方が圧倒的に大きかったです。

転職して良かった主なギャップ2つ書きます

 

早朝電話や土日出勤が全くない

前職は平日出勤だったのですが、セールスする相手は「農家」(牛のエサ売ってました) 。

彼らにとっては土日も関係ないしあまりその感覚がないので、土日でも平気で電話が来ます。

また、彼らは朝が早い。5時~6時位から動いており、問題があれば容赦なく朝っぱらから電話がかかってきます。

「朝牛舎にエサやりにいったら、牛ぶっ倒れてたぞ!」とか笑。

牛が倒れた=エサが悪いにすぐ直結するわけではないんですが、牛を育てるコストのうち半分以上は餌代なんですね(牛舎を除いて)

彼らとしてはエサ屋に沢山支払っており、比較的強く出れるので何か問題あればとりあえずエサ屋をどなる訳です。笑

 

あと、よくあったのがカビや異物が混入してたクレーム(コンタミという)。

エサ=トウモロコシとかの様々な穀物を加工して混ぜたもの、なんですが、牛の口に入るまでのどっかで混入するケースがあります。

エサ屋の製造段階かもしれないし、エサの配送トラックやエサタンクに元々あった内部の付着物が入ったのかもしれない。

特定は難しいのですが、主な支払いはエサ屋なんでやっぱりとりあえずエサ屋をどなる訳です。

クレームなんで土日も関係なく、最悪の場合現場の農家を訪問して場を収めることもありました。

 

あとは珍しいケースですが、取引先の鶏舎、豚舎が家事になった、台風で牛舎が壊れたとかの応援。

鶏舎、豚舎は病気が入らないように完全屋内で電気によって空調とか管理してるんですが、落雷やネズミのケーブルかじりなどでたまに火事になります。

倒壊した建物の破片拾ったり、空調止まって死んだ鶏を片づけたり、今では考えられない経験が4回くらいありました。

彼らが回復してくれないとエサも売れないですし、得意先のトラブルの時は緊急出動する訳なんですが、独身であった私は問答無用でヘルプメンバーとして行かされてました。

当たり前かもですが、これが一切なく、土日は電話がまずない。めっちゃ幸せでした。笑

 

忖度飲みがない、人間関係がラフ

前職では部長のうっぷん晴らし的な飲みや、社内接待ゴルフなどがかなりのストレスだった私ですが、それらが一切なくなりました。

前職の部長は「これも勉強だ」と言ってたんですが、こちらからすると「完全にアンタのオナニーじゃん」という話で。

時間とお金をドブに捨てる感覚でした。

ただ、上の命令は絶対、間違っていても言いずらい。上を見て忖度して仕事してる会社だったので、誰も逆らえない状態だったんです。(逆らうと製造に飛ばされたり、権力を使って立場を悪くさせられる)

で、中間層や先輩も自分の保身に走って上に媚びて、結果独身の若手がサンドバックとなってた訳です。

う~ん、思い返すと改めてクソみたいなピラミッドですね。笑

 

とまぁこういった事からは解放されたので、転職して超良かったです。

保身に入って上に媚びるどころか、面倒見がよく優しくて、ラフで何でも気軽に話せる先輩方。後光が差してました。笑

彼らのおかげで、「会社の飲み会=クソだるイベント」という認識が「普通に楽しい」という感覚に変わりました。

また、ラフ目な人間関係の方が自分も楽だし合っている(その方が輝ける)とも思います。

 

あと上席と飲みにいくと普通に領収書を切ってくれること。

前職では全然支払わされてました。(たまに1件目の居酒屋は領収書切ってくれることもありましたが、その後スナック2件自腹で梯子するから結果普通に金かかる。笑)

今思えば「領収書切るけど我々には支払わせてて実は搾取していたのではないか説」もあります。

あのクソ部長なら平気でやりかねないと思います。

 

御局(おつぼね)や変な女子事務員がいない

先に断っておくと性差別ではありません!

男女比が極端に偏ると人間関係だるくなりがちって話です。

まず、前職が圧倒的におじさん割合が高く、女性が少なかったのでチヤホヤされて勘違いして御局化しやすかったのです。

女性事務員の多くは高卒や青森出身で田舎者という劣等感が多少なりあったんだと思いますが、一応一部上場企業だったので、周り(青森の同じ生活コミュニティの人)と比べると給与も高い。

なので劣等感の反動で優越感がでかくなり、「私ってすごい」みたいな勘違いを加速させていた部分もあると思います。

また、最大の原因はクソ部長がダメダメな人でも無駄に可愛がる事。

中でも4個下くらいの女性事務員が超かわいがられてまして。

ダメな子だったんですが、部長のお気に入りなので周りの社員も強く出れず。

部長の寵愛を受けた上、元々ヤバいやつ気質も持ち合わせていたため、勘違いモンスターの完成です。

ちなみにお世辞にも可愛くはありませんでした(裏では先輩と「溶けたバタ子さんみたいな顔」と馬鹿にしていた笑)

で、「溶けたバタ子」が営業事務だったり経費の1次処理をするのですが、無駄に言いがかりつけてきたりつっかかってきてクソだるかったです。

「いやそれアンタの仕事じゃん」的な正論も、クソ部長+それにしたがう中間層と先輩達のせいで言えず。

なんでこんなやつに気を使わなければいけないんだ、と地味にストレスでした。

 

という訳で、男女比が極端だと人間関係がいびつになったり、勘違いモンスターが生まれやすい。という説です。

転職先は男女比ほぼ半々くらいでこの現象が産まれない為か、「溶けたバタ子」のような奴はいませんでした。笑

  

もしかしたら上記3つがちょっと異常だったのかもしれません。

ただ、新卒からすると、どうしても1社目の常識=社会の常識ってなってしまう訳で。

ネット見ると色々書いてもあるんですが、自分が目の当たりにしている現実が自分にとってのリアルで、いまいちピンときてなかったのです。

「社会はこんなクソなのか。。」と絶望してた私ですが、クソなのは単に会社と人だったということが転職してはっきり分かりました。笑

業界や会社によって常識は全然変わるので、もし今苦労されている人がいたら転職検討をお勧めします。

 

今回はこれくらいにします。

次回、2社目⇒3社目へ転職しようと思った経緯などをまとめる予定です。

では。

転職について➂

シリーズです。

前作はこちら。

転職について➀ - すーやん気ままブログ

転職について➁ - すーやん気ままブログ

 

新卒で入社した会社で青森県に配属になるも、心をすり減らして2年半でギブアップ。

東京の実家に戻り転職サイト登録するも、精神状態が微妙だったのですぐ活動ストップ。

2ヵ月ほどいろいろリフレッシュ活動を行い多少は回復、経済的理由その他もあり転職活動を再開して無事内定。

までを前回書きました。

が、転職時の話を前回書いてなかったので、今回は

【2015年10月~2016年1月:フリーター編➁】

とします。笑

 

では本題へ。

私はリクルートキャリアという転職サイトを利用しました。

転職サイト登録~内定までは大まかにこんな感じです。

(1)リクルーターと面談、業界や職種などを相談

(2)履歴書と職務経歴書を作る

(3)それっぽい求人情報をリクルーターが送ってくれるので、気に入ったものに応募(ポチるだけであとは勝手に書類先行を進めてくれる)

(4)書類先行が通った会社のお知らせがくるのでリクルーターを経由して面接を設定

(5)これを繰り返して面接を進める(面接は2次面接か3次面接までの会社がほとんど)

(6)内定

やってみた感想としては職務経歴書さえ書いてしまえば、後はけっこう楽」

ちなみに職務経歴書とは履歴書では書ききれない詳細(仕事内容、実績、自己アピールなど)を書く書類です。

基本的に新卒より面接回数は少ないし、会社や社会人というものが経験として分かっているから話もスムーズだし、SPI(適性テスト&能力テスト)も個人的にはそこまで苦ではない。

何よりリクルーターが色々手助けしてくれます。

今の新卒は分からないけど、私が学生の時はキャリアセンターの事務の人がちょろっと助言してくれたり資料くれるくらいでした(あと当時は謎に履歴書手書き指定の会社もあってクソだるだった)

対してリクルーター職務経歴書の添削から社会人経験含めた適切なアドバイスまでしてくれて、かなり頼りになります。

また、新卒の時って基本3次面接まで、多い会社は4次~5次まであった気がします。対して中途は2次~3次が基本なので比較的楽。

加えて、ある程度の人数を一斉に同時進行させる新卒と違い、中途は少数を即戦力として確保したいため、面接と面接の間の期間も短く、さっさと進みます。

なのでしっかりやれば、1か月程度でだいたい内定1社は出るってリクルーターが言ってました(当時は好景気だったので今は分かりませんが!)

 

当時の会社選び基準(及び理由)はざっくり3つ。

➀営業職(手に職ないし、エンジニアも合わなそうだから。何となく)

➁都内の会社で転勤なし(また前職のように地方行くの嫌だから)

➂ITっぽいところ(前職がITリテラシーがあまりに低かったからその反動)

 

➂補足です。

前職は農家さんに牛のエサを売る営業でした。農家は電話が基本、たまにFAX。メールってなんだべか?の世界。笑

社内ではPCは一応使うもの、報告書作成や申請あげるのが大半で、メール文化はほぼありませんでした。

ザ・判子文化で、書類作成しては課長⇒部長⇒専務。。と通さなければなのですが、出張でいつもだれかいないのでストップするし、すぐ返される。

あと悪い意味での上下関係、忖度ばかり。いわゆる「中を見て仕事している会社」ってやつです。

旧体制でとにかく不便だし人間関係もめんどくさかった。

という訳で人間関係もラフで、ITを駆使してスマートに働ける業界に憧れがあったんです。笑

 

ともかく社会復帰がしたかったし、前職で自信のる実績なんか全くなかったので、給料もそこまで気にしませんでした。

というより自分なんかがそこまで気にできるレベルではない、みたいな事思ってたんですね。

多少マシになったとは言え当時の思想からはまだまだ闇を感じます。笑

 

都内のIT会社営業で給与もそこまでこだわりない。

当時は好景気でしたし、そんな求人は沢山あります。

元々面接は嫌いではなかったので、落ちても関係なしでバンバン受けます。

そうすると活動再開1か月後には3社から内定を頂きました。

うち1社は契約社員からスタートという条件だったのでアウト。

残り2社を比べると、片方は神保町の雑居ビルっぽいところに入った50名程度の会社、もう片方は六本木のオシャレビルに入った100名近くの会社です。

給与はそんなに変わらなかったと思いますが、イメージが段違いだったので当然後者を選びました。笑

六本木の会社は「決済代行」という業界で、ネットショップなどを運営している企業にクレカ・コンビニ払いなどができる「お支払いシステム」を提供している会社で、なかなかITっぽい感じを漂わせていました。

こうして、私は青森の牛のエサ売り⇒六本木のIT会社セールスに無事(?)転身しました。笑

全然1社目の方が大きな会社なのは触れず、このギャップを当時はかなりネタにしてました。笑

 

今回はここまでです。

では。

転職について➁

こちらの続き。

転職について➀ - すーやん気ままブログ

新卒で入社した会社で青森県に配属になるも、心をすり減らして2年半でギブアップ。東京の実家に帰ってたきた所からスタートです。

 

【2015年10月~2016年1月:フリーター編】

正確には有休消化もあったので、9月初旬には東京に戻りました。

引越し片付けを終え、ハローワークで失業手当申請などを進めつつ、一応リクルートキャリアに登録。

リクルーターと面談を行い転職活動をスタートしました。

しかし、前職で精神が削られ、社会・会社・働く事に恐怖と不安を感じ、闇MAXだった私はすぐ活動が止まってしまいます

なんとか職務経歴書などは書き上げ、リクルーターから求人が送られてくるのですが、全く応募する気になれませんし、もはや求人と向き合う気にもなれません。

求人ポチらない生活1週間が過ぎると、リクルーターから連絡が入りました。

自身の状態を説明、一旦活動は休止して気持ちがある程度切り替えられたら再開する事に。

今振り返ると「しなきゃいけない」思想で転職サイト登録したはいいものの、自分を見つめ直したりアピールできる精神状態ではなく、心が拒否したんだと思います。

自分の人生でもトップクラスに自己嫌悪と負い目を感じている時期でした。

さておき、転職活動を休止する事にした私は、能動的にリフレッシュ活動をしようと決意。

当時した主な事を書いていきます。

 

ボランティア旅行

自己嫌悪と負い目を感じ、社会のお荷物だと思っていた当時の自分。笑

人の役に立っている実感が欲しく、何かボランティアしようと思いました。

いろいろ調べていく中で、関西での「2泊3日の里山保全×外人交流ボランティア旅」みたいのがあり、参加を決めました。

関西方面にも友人もいるし旅行半分で気分転換になりそうなので。

ちなみに、失業中で無駄なお金は使いたくないものの、時間だけはたっぷりあったので格安夜行バスでいきました。笑

参加者はたしか日本人半分、香港人半分、男女半々で20人くらいです。

大阪のちょっとした里山にある小屋を拠点に、小屋キレイにしたり、竹切ったり地元の人と交流しつつ、ボランティアさん達と寝食を共にするというもの。

ちょっと大学時代のサークルみたいでした。(実際参加者も大学生が多かったのですが)

私は竹切りも家事もとても頑張りました。みんなで豚汁作るときすらも、全力でごぼうのささがきしたの覚えています。笑

近しい経験もあったし、ともかく人の役に立っている実感が欲しかったのです。

このボランティア旅自体がかなりのんびりしており、参加者ものんびり自由(悪く言えばルーズ笑)だったので、良い意味で私は浮きまして。

「なんかこいつすげえ 」と周りから思われ、人気者になりました(笑)

この経験でゼロになっていた自分の自信が少し戻りました。

 

沖縄旅行

日本本島の最北端にいたからでしょうか、南で心を休めたいと思い沖縄へ。笑

那覇の1泊2000円ほどの安宿(1人1ベッド的な所)に2週間ほど滞在しました。

宿泊者同士が交流できる居間があったり、夜は隣の専用の飲み屋で酒盛りをしたり。とにかくディープでゆるくて一人でも寂しくはありませんでした。

昼まで寝て、国際通り付近をプラプラ散歩したりして、酒とつまみを買ってゲストハウスに戻って宿泊者同士で飲み。結局だらだら深夜まで飲み。基本はそんな生活でした。笑

特に印象深かったのはゲストハウスのスタッフ。

主要4人のうち2人がとにかく盛り上げ上手のゲイでした。彼らの話を聞くと、沖縄にたどり着く前にいろいろ他人から理解されないなど苦労があったそうで。

境遇は違いますが、「コミュニティに馴染めなかった」という点ではちょっと共通者な気がして、そんな彼らも沖縄で楽しそうやっているのでなぜか自分もちょっと楽になりました。

ちなみに片方の大型ゲイ(推定80~90kg)からは結構ガチで狙われて、深夜2時の散歩とかに誘われてました(ケツ触られながら!笑)

今となっては笑い話ですが、当時は結構ビビッてもいました。笑

あと沈没者っていうんですね、長く滞在しているゲストハウスの宿泊者長老のような「その日を楽しめればいいじゃない」的なおじさんがいました。

楽しそうだけど人生これでいいのだろうか。。

自分の事は棚上げして、その人見ると、自分はちゃんと働こう。とちょっと思えました。笑

なお、現地住まいの先輩と遊んだり北部の観光地行ったりもしたんですが、それは割愛します。笑

 

仏教旅行

前職は「一部上場企業の業界3位のメーカー」でした。

ちゃんとした会社に入れば、勝手に幸せになるのかなと大学生の時なんとなくと思っていましたのですが、現実は見事に打ち砕かれました。

「これで幸せになれなかったら、じゃあどうしたら幸せなれるのか」

私はステレオタイプの幸せ像が崩れたことによる、不安と絶望も感じていました。

そこで「そもそも幸せとは?」を本気で考えました。

結果、「幸せ=仏教ではないか?」という結論に至りました(本気です笑)

とある本に、「仏教とは、苦しみが多いこの世界の中で、心安らかに生きる為の自己啓発である」、的なことが書いてあったんですね。

そう!当時の闇MAXな私にとってはぴったりのワード過ぎたんです。笑

という訳でザ・仏教!的なスポットを調査。

日本の数ある宗派の大元となった言われているのは「比叡山延暦寺」(滋賀)と「高野山金剛峰寺」(和歌山)という事が分かり、そこに行きました。

無論、失業中で無駄なお金は使いたくないものの、時間だけはあるので格安夜行バスです。笑

感想は「めっちゃ山」「ここなら確かに人里離れて修行できそう」

圧倒的小並感。笑

さておき、行っただけで自分の中で謎の満足感に満たされてしまったので、仏道に入る事はしませんでした。笑 

 

バイト

今更ですが、フリーター編なので一応触れておきます。

実は東京の実家に戻った際、ありがたい事に元々のバイト先から声がかかり、一時的に復職していました。

といってもシフトも完全希望制でかなり融通利くので、先述の旅行なども全く問題なかったのです。なのでパラパラとバイトもしてました。

バイト先の方はプライベートでも仲が良い方で、理解があってアットホームで、精神的には全然大丈夫でした。むしろ、削られた心を温かく癒してくれる場所でもありましたた。

フリータ―編ですが仕事については以上!笑

とにかく、幸いにも闇状態の中でも働ける場所があり、この時期でも一応収入源はあった。という事です。

 

その他

青森にいて大型連休くらいしか地元東京の友達と会えなかった自分。失われた時間を取り返すように、小中、高校、大学の友人と遊びに行ったりお酒飲んだり旅行行ったりしました。

その中で一つの異変に気付きます。

ビールが美味しくない!!

なぜか。働いた後の一杯なんて言いますが、正社員で朝から晩まで働いている友人と、自由にすごしつつ、たまにバイトに入る自分。

無意識に比較してビールの味を劣化させていたのかもしれません。

この感覚って自分だけですかね?ホントいまでも不思議です。

 

そんなこんなで、9月初旬に東京に帰った私は本格的に転職活動を12月から再開させます。

再開した動機は

・闇が薄まり、やや自信が戻ってきて大丈夫になってきた

はもちろんですが、他には下記理由があります。

・貯金が減ってきた

・ちゃんと世の役に立ちたい意欲が高まってきた

・そろそろ美味いビールが飲みたい

やはり、多少バイトで稼いでいると言っても、好き勝手やってばかりだとお金は減る一方なので。同時に心も回復しつつ、欲ももどってきた感じです。

で、内定が2社出て、うち1社に決定。

2016年2月から正社員として2社目をスタートさせます。

この内定までの話は次回パートで書くこととします。

では。

転職について➀

私は過去2度転職をしてます。

周りを見ても、転職した人や転職しようか悩んでいる人が沢山いるようです。

同世代は今年で30歳、社会人8年目。まあ色々考えますよね。(ちなみに自分は既に30歳。アンチエイジング頑張ろう(適当))

一度も転職を考えないでずっと1社目で働いている方の方が稀なんじゃないでしょうか。

 

今回は自身の過去エピソードと転職に対する考えをまとめてみます。(長い話になるので、いくつかの記事に分割予定)

まず、自分の職歴をまとめるとこんな感じです。

➀2013年4月~2015年9月:飼料メーカー(家畜のエサ)

➁2015年10月~2016年1月:フリーター

➂2016年2月~2018年9月:IT会社(決済システム)

➃2018年10月~現在:IT会社(交通系アプリなど)

 

➀~➃それぞれ振り返って、最後にまとめる感じの構成にします。

 

まずは1社目。

【2013年4月~2015年9月:飼料(家畜のエサ)メーカー営業】

農業大学卒業後、新卒で入社した会社です。

当時、農業・食品系中心に面接受けていたんですが、受かったのが全て地方本社の農業系のメーカーでした。

・名古屋の飼料メーカー(家畜のエサ)

・北海道の飼料メーカー(家畜のエサ、種苗)

・群馬の種苗メーカー(種苗、農業資材)

これはもう、神様が「一回、東京を出ろ」と言ってるのかなと思いまして。笑

その中でもよく見えた名古屋の飼料メーカーに決めました。

その会社は一部上場企業で業界3位の会社でして、入社前の肩書やイメージは悪くありませんでした。新卒の時って「メーカー」とか「一部上場」神話みたいなのありませんでしたか?私の中にはめっちゃありました。笑

新聞に社名と株価が載っているってのが何とも気持ち良いというか、謎の大手っぽい安心感みたいなのがあったんだと思います。

 

入社して2ヵ月ちょっとは名古屋の社員寮に住んで新入社員研修を受けました。

同期と2人1部屋住まいで、寮に住んでいる同期は計4人。寮生以外の2人と合わせて計6人で楽しくやってました。思い起こせば、この会社で楽しかったのは唯一この期間のみでした。(笑)

本社研修の他に、家畜のエサ工場の研修、研究農場での研修などなど。研究農場ってのは鶏、豚、牛なんかの世話と生態についての勉強ですね。

 

研修も終盤に差し掛かり、いよいよ運命の配属発表。

この会社は北は北海道、南は鹿児島まで生産工場兼営業所が点在してまして、どこに行くか分かりません。とは言え、ある程度勘案して関東になるのかなーと漠然と思ってました。

「S君、八戸!」

「は、はちのへ、、?」

「はちのへ」と読みます(読めない人も結構いる)。

青森県です。岩手ではありません。

行ったことも、縁もゆかりもなく、吉幾三の「オラ東京さ行くだ」のイメージしかありません。

ティーボーイの私は激しく絶望しました。

家相手な商売な訳ですから、ある程度の地方に行くとは思っていたものの、、いざ通達されると実際めっちゃショックでした。

何といいますか、頭では覚悟してたつもりだけど、心が激しく拒絶してる、みたいな感じですかね。

 

で、青森に飛ばされます。

仲良かった同期は鹿児島、愛媛、岡山に散り散りになりました。青森から一番近い同期が岡山、、どういうことやねん。笑

さておき、八戸は思っていたようなド田舎ではなく、コンビニ、イオン、ニトリ、さらにはドンキまであり、生活必要物資を買うには困りませんでした。

ですが、いかんせん青森。知り合いもいませんし、「東京帰りたい」の気持ちで日々っぱいでした。

 

仕事としては営業で牛担当。肉牛、乳牛用のエサのセールスです。

仕事内容自体はそこまで大変ではありませんでした。

牛の家畜のエサ=定期購入になり、一度決めるとなかなか変わりづらいんですね。

なので先輩から引き継いだ得意先を回ったり、回らなかったり。いずれにせよ結果はあまり変わらず、他社にとられもせず、牛がいる分だけほぼ毎月消費は同じ。

得意先1件だけ寄って、あとは近くの温泉入って帰ってくる。こんな日も珍しくありませんでした。笑

ただ、楽=楽しいじゃないんですね。全然楽しくなかったです。

仕事頑張らなきゃ!という気持ちはあるんですが、何というかだるい。

会社の方も良くしてくれる方は多々いたのですが、ともかく「東京帰りたい」が強すぎて、青森生活でのやる気があまり出ない感じです。

今思えば、やる気がないのか興味が持てなさすぎなのか、仕事に活かそうと業界誌とか読んでも不思議と全く頭に入ってこず、脳ミソが異様に低スペックになってました。

ただただ、そのうち慣れる、修行だと思いつつ日々を過ごしました。

そんな状態だったので、知らず知らず自分の自己肯定感は下がっていってました(が、当時はその事実に気付かず)

 

そんなこんなで1年が過ぎ、変化が訪れました。(悪い方の笑)

部長(八戸のトップ)と、牛チームの課長が人事異動になったのです。

部長は悪くて嫌なやつ、課長は人の気持ちが分からず人望がない人でした。

まず、新部長になってから社内接待のゴルフや飲み(半強制、行かないとハブられる)が増えました。そういった場でも教育って言って若手を叱るんですが、しっかり金は割り勘なんですよね。半分憂さ晴らし的な会合に、怒りとストレスが溜まってきました。

また、様々な事が起因し、八戸全体の業績が落ち込み、彼らからのプレッシャーが徐々に強まってきました。上からのプレッシャーはあるのですが、相変わらずやる気がでません。頭では「頑張らないと」と思っているんですが、心がもうダメダメです。

そんな自分に嫌気がさしてきました。

加えて、新たに引き継いだかなり厳しめのお客さんがいたんですが、その方が私を見抜きました。

「こいつはやる気がない」という事を。

細かな経緯は忘れましたが、私立て直し?の為にそのお客さんの農場で1か月の修行が決定しました。泊まり込みで朝5時~夕方5時までの農場作業です。

1か月間、研修自体は耐え抜いたものの、「会社やお客さんからの期待に自分は応えられていないし、今後応えられそうもない」という事が自分の中で明白になり、申し訳なさ、情けなさを感じ、自分を責め、お先真っ暗な気持ちになりました。

 

で、ある日ついにこの考えが舞い降りてきました。

「会社辞めて東京帰ろう」

今まで会社辞めるという選択肢が思い浮かばなかったわけではないですが、辞めるにしても石の上にも3年を信じ、3年はやるという何となくのビジョンがあったのです。

が、もう無理です。

一度舞い降りたらもう止まりませんでした。

課長に話をし、辞表を出し、、話はトントンと進みました。

ここから逃げれる!という喜びもありましたが、それ以上に「くじけた」「逃げた」みたいな自責の念が強く、自分の中の負の感情は更に高まりました。

職場の人間からの「なんで辞めるの?」「残念だ」の声がまた辛かった。

彼らからすると、田舎で一部上場企業、給料もそこそこ貰えて良い暮らしができており、それを思って辞めてないわけで。なぜその暮らしを捨てるのか?みたいな感情が多少なりあるように感じました。

今思えば、私は東京出身で彼らとは状況は全く違う訳で、鵜呑みにする必要もなかったのですが、弱ってた自分は言われた以上に自分を責めました。

また、「一生勤め上げるのが当たり前」「石の上にも3年」「つらい事も勉強」みたいな考えの人が多く、ほぼそれを実践してきた人ばかりだったので、私の選択が異端で許容しがたい、許せない、みたいな感情も多少なりあったように思います。

まぁ仕事を決めず東京戻る訳なので、純粋な心配部分もあったかとおもいますが。

青森いながら東京の会社に満足いくような転職活動って普通に無理でしょ。笑

 

とても長くなりましたが、1社目はこのようにギブアップに近い形で退職しました。

辞めるまでの微妙な期間もどんな顔していたら良いかわからず辛かったです。

 

なお、2年半で失敗含め学びもかなりあったのですが、

当時自分の中では「何も学べず、ギブアップした」という十字架を背負い、弱って東京に逃げ帰った感じでした。

 

続きはまた書きます。

では

 

~20200512追記~

読み返してみて、青森の私生活について全く触れていなかった事に気づいたので、追記しときます。

まず、青森行ってすぐ車を買いました。

東京とか一部の地域以外、日本の多くの地域では不自由なく暮らすには車が必要です。

自転車も買ったけど3回くらいしか乗りませんでしたね。東京の自転車感覚で気軽に車のってました。

男の軽自動車はダサい。私にはイマイチ分からない感性なのですが、会社の人のほとんどがこの感性を持っていました。(これに影響されたわけではないですが、自分は中古の普通自動車を購入)

また、会社のおじさん達の話、仕事以外で重要視している事は飲み・車・女性関係・ギャンブル。あとたまにゴルフ。ほぼこのパターンしかありませんでした。

まあ、田舎のおじさんなんてこんなもんかもしれませんが、毎度の同じパターンに私はとても飽きてました。

会社のおじさん達達との価値観の差、日々ちょっと無理して話を合わせるのに、自分の中の何かをすり減らしてた気がします。

 

会社以外だと土台青森在住の友達がいないので、スノボサークル的なもの入ってみたり、ネットを使ってマッチングアプリで出会ったりしてました。

たまに会う人、良い人もいたのですが、

東京帰りたい病を発病し、自己肯定感が低かった当時の私は、心をうまく開放できず、一緒にいてもあまり楽しくなかったです。

良い感じになった女性もいたのですが、自己肯定感が低すぎて「人を幸せにするなんて自分にはできない」と思って自分から合わなくなりました。

そんな自分がまた嫌になり更に自己肯定感が下がるという負のループ。

ちなみにその子は津軽弁のギャルだけどいいやつでした笑笑

 

その他、土日のパターンといえば飯食う、飲み行く、ゲオでDVD漫画借りる、地方の大型イオン行く、ドライブ行くなど。。

その時の精神状態からか、やはり何やってもイマイチ面白くない。

ちなみに地方の大型イオンですが、地元の人は大体「しもジャス」と呼んでました。下田にあり、昔はジャスコだったので「しもだのジャスコ」⇒「しもジャス」。

「しもジャス」いくと大抵会社の人と一人くらい出くわします。笑(遊びに行くところの選択肢があまり多くない被る訳です)

 

なお、連休になると待ってましたとばかりに地元東京に帰ります。

地元東京の友達に上記のような状態の話をするんですけど、まあ伝わらないんですね。状況違いすぎるので辺り前なんですけど。

「こんな状態だけど、昔からの友達なら分かってくれる、共感して欲しい。」という気持ちがあったんだと思います。共感してもらって、「自分だけがダメなわけじゃない」と自分に言い聞かせたかったんですね。

ですが、話をして伝わらない、共感されないと、「自分だけがダメなのか」と自分を責める訳です。これまた負のループ。笑

 

とまあ、私生活はそんな感じでした。

改めて思い起こし、文章におこしてみると、超病み文書になってしまいました。

やはり中々に病んでいたんだなあとびっくりします笑

 

ただ、こんな状態を経験したからこその学びは多くあります。

が、それはまた別記事でやろうかな~と思います。