ラーメン二郎なK君とチェーン店定食な私

ふと思い出した事。
昔は何か表現者への憧れがそこそこにあった。

昔は絵を描いたりモノ作ったりすることが好きで、図工、家庭技術、美術は通信簿で常に5だった。
シンプルにその時間が好きだったのもあるし、比較的人より得意な分野で誉められたい、自己表現したい欲があったんだと思う。
あとは平々凡々な自分への反逆、自分には他の人とは一味違うと価値があると自己満足させたかったのかもしれない。

高校はそこそこに進学校で、大学進学は上位の人は早慶、平均でMARCH、日東駒専いく人はちょい下位みたいな感じだった。
中学では成績優秀だった私は高校では勉強は頑張っても下の上~中の下といったところで、通信簿5はまずない。
頑張っても勉強では学校平均以上とはいかず、面白くなくて勉強があまり好きでなくなった。
そんな中唯一通信簿5をとれるのが選択美術だった。(多分、先生が優しいから評価ゆるかったのもあったけど)

いい大学いっていい会社入る他の同級生に、メンタル、自己満足的?に負けない為か、私は偏差値勝負を降りた。
大学は海外で農業開発者め目指す学科という謎ルートを進むことにした。シンプルに他と違って面白そうと思っていたが、これも『この人他とは違う』という一瞬の自己表現だったのかもしれない。
違うルートで他と張り合いたかった私は、実のところ自分に自信がほしかったのかも。

大学進学して農業したり海外調査したり、あとは謎イベント沢山のよくわからん部活に入部した。
今思うととてもネタにはなったので結構満足している。

どのタイミングだかは忘れたけど、写真部?のK君という変態がいた。
彼の変態性は、『吐血した女性の写真』を取るのが好きというところ。
モデルの女の子の費用全部出して、京都で着物女性の吐血した写真(血は血糊)を撮ってきた話を聞いた。
そしてK君は多分どMだった。

彼の変態性をもってした表現と比べると、平々凡々な私の表現などただのチェーン店の定食位に思えた。K君はラーメン二朗位の衝撃だった。
これはある種の悟りと言ってもいいかもしれない。
多分、それを機に美術、家庭技術的なことをあまり好んではしなくなった。

最近はたまにこんな感じで文章書いている。これは結構嫌いじゃない。
周りに勝ちたい、評価されたいというよりは、自分の中のふわふわした気持ちの整理、言語化という感じかもしれない。
自分で言うのもなんだが、私は弱い部分や正直な部分を人に見せるのは結構平気なので、恥ずかしげもなくこんな風に書けるのだと思う。
そしてK君みたいな変態的、天才的表現もあれば、自分みたいな表現方法もありなのかもと最近思ってきた。
チェーン店定食はそれはそれで良さがある。

成功者の本は勉強にはなるけどあまり面白くないというか、そこから自分の身にするのは難しい。
一方で、失敗談や素直な自分の内面を書いている本は結構好き。芸人オードリー若林のエッセイとか。
彼の文章は自分のふわふわした気持ちを、あ、これか!みたいな気付きをくれる。
チェーン店定食とは違うかもだけど、どちらかと言えば若林よりの文章を自分なりに書けたらいいな、とちょっと憧れたりする。
生活ノウハウやオススメコンテンツ紹介みたいな文章より、自分に焦点をあてて書いた方が断然楽しい。

と言うわけで引き続き思い付いたら文章書いていこうと思います。
おわり。