戦闘機が買える位のはした金ならいらない、と言える人

戦闘機が買える位のはした金ならいらない。

ブルーハーツのNoNoNoという曲の一節。
なんと言うパワーワード

youtubeで久々に聴いて、ふと考えた。
お酒がはいってからか、真面目に考えた。

学生の時はピンとこなかった気がするけど、大人になった今、この言葉の凄さに改めて衝撃を受ける。

ここからは勝手な自分の妄想。
作詞の甲本ヒロトはこれをガチで当時思い、書き、歌っている。
戦闘機、、1機十億?数十億?
これをはした金なんていうのは、どう考えてもバカだ。もしくは金銭感覚異常なアラブの王様とか。

と、現代資本社会の常識で額面で考えるとそうなるんだけど、常識捨てて精神を解き放って??読み解くと、また見え方が違う。

一言でいうと「死ぬほど好きなことがあるか」ってこと。
「死ぬほど好きなこと」ができなくなる事と比べると、仮に戦闘機位の金があっても、そんなものはとるに足らない。

更に書くと、家族、子供、友達、、これらは比べようがない。
だけど、これらを失っても、どんなに辛くても悲しくても一人でも、、そして金がなくても、これさえあれば生きる希望が見いだせる、生きていける。そんなものがあるかってこと。
甲本ヒロトからするとこれが音楽、パンクロックにあたる。

死ぬほど好きでガチでやるから、イキザマ的なものが見えてカッコいいってのはあるんだろうな。
サンボマスターボーカル山口さんもまさにそんなイメージ。

だけど逆に言うとこれを失った時もどうしようもなく人にはわからなく辛い。
のだと思う。

というのが、私の敬愛する先輩、某プロレス団体のエースが怪我や病気で、死ぬほど好きなプロレスをできない話を聞いたから。
彼は自分のスタイルを貫いて闘うのが好き?生きざま?のようで。
お笑いよりのプロレス?やったり、指導者やったり色々道はあると周りは言うらしいんだけど、それじゃ全く意味ないし楽しくないらしい。

正直私にはそれがわからない。
といかほとんどの人が多分分からない。
圧倒的成功と快感、そして挫折と地獄。。
自分には何もできないけど、可能性ある限りは応援したいと思う。

、、どうやってオチにしたらいいかわかんなくなってきた。。

ひとつ言えることは、「(自分が大好きなことを失うことにくらべると)戦闘機が買える位のはした金ならいらない」なんて真面目に言えるヤツは、自分の知る限り、超かっこいいということ。

そして、さっき比べようがないと書いたけども、親っていざ子供の命の為ならこんなこと言えるのだろうか。
なら親も同じくらいかっこいいと思う。

私は甲本ヒロト的にはなれないだろうけど、そんなこと思える(言わないだろうけど)親にはなりたいな、と憧れる。
これ、言語化して、さっきふと思った。
うーん、これだから言語化はおもろい。

謎エンド。
おわり

不満と自分の見つめ直し方

組織に不満がある時。
知らず知らず組織や他者のせいして、周りに求めることばかりになってしまう事がある。

こんなときの対処方(自分の見つめなおし方)は
【しがらみなく関係の薄い客観的人物から、自分自身に対する指摘をもらう。】
である。

これ読んでもらってる方的には、何のこっちゃである。
最近書く記事は自己整理系(というかほぼ日記?)になりつつあるが、自身が将来同じ状況になった時の申し送りとして、あえて誰からも見ようと思えば見れるこのブログに記事として記しておく。

今の自分の状況をまとめる。
2020年4月に自身の務めていた会社、旧J社と、競合他社のD社が合併した。
銀行で言う違う2社が合併した感じである。
ただ、厳しい情勢で生き残りをかけての致し方ない?統合とはちょっと違う。
激化する業界の中で、競合同士競り勝つ為の集客コストを激しく投下していた(QR決済会社のバラマキ合戦的な)中、いっそ統合してサービスを一つにして人的、金銭的無駄を抑え、集約して、よりよいサービスに集中するための、前向きな水平統合だった。なので、どちらかが買収した、買収されたではない。(読者からすると???かもだけど、自信の文書能力給ではこの表現でいっぱい汗)

コロナでのリモート状況、会社としてはしばらく旧J旧Dそれぞれのサービスを継続、オフィスが統合して引っ越ししたのが2021年末になったなどもあり、会社として統合した当初は中々実感なかった(なので不満もあまりなかった)。

最近いよいよ各サービスを統合、組織融和がかなり進む中で、組織に対する不満が大きくなってきた。
不満を大きく分けると2つ。

・当然ながら旧J社時代のようにはモノゴトが進まない、ざっくり昔はこうじゃなかった、昔はよかった的なこと。
・もう一つは、一部特定部署の人間が大量離職したり、仲良かった人が辞める辞めそうなどの話から、「この組織は人を大事にしてない」的なこと。

後者について、辞めそうな後輩のはなしを聞いて、会社に憤慨していた。なんとなくムカついていた。
組織のここが悪い。
このマネージャーが原因なんじゃないのか。

で、今日ある出来事をきっかけに気づいた。
何か組織や他者に文句を言う(実際にはほぼ思うだけ、もしくは愚痴るだけ)ことが知らず知らず多くなり、「自分が何ができるか」の視点で最近考えれていなかった。
完璧な組織や人はいない訳で、「自分が何ができるか」を主体に考えた方が健全なんだけど、組織への不満にばかり目がいってた。

今日の出来事というのが下記。
セールス系メンバーの意見交換、共有会的なところで、自分だけにと言うわけではないが、とある人が言った。

統合で大変なのは皆同じだし、組織規模も倍になった訳だから今までのようにはいないのが当たり前。
「自分が何ができるか」で考え、具体的に自分から提案していくことを考えよう。
これ誰がやるの?が多い中、誰かやって!ではなく、自分でまず提案してみる。

当たり前の事なんだけど、これが腹落ちできてなかった自分がいたことに気づく。

これを言っていた人が「しがらみなく関係の薄い客観的人物」だった。(旧D社(自身の出自じゃない方)のいちメンバー)というのがミソだったようだ。

・旧J社のマネージャー(上司)だと
役職有無で状況も違うのに、言われてもなんか反発した気持ちが起きる
・旧J社のメンバー(平社員)だと
ただの愚痴っぽくなる
・旧D社のマネージャー(上司)だと
うっせぇお前のことあんま知らんし、旧D風の感じで言われても納得いかん!という反発した気持ちが起きる
となってたみたいなんだけど、

・旧D社のメンバー(平社員)だと
ここら辺の感情が薄く、客観的意見として素直に聞けたんだと思う。妙に腹落ちできて自分でもびっくり。

思い起こすと、大学の部活時代にも似たことがあった。
部活の時期部長になることが決まっていて、めんどくさい、大変という感情に一時的に支配されていた。
この時、違う部活の女の子(そいつは次期部長ではない)に、「やる気ないなら降りた方がいいよ、だったら他の人がやった方がよっぽどいい」と言われて、謎にヤル気が戻ったという話。

文面に起こすとちょっと違うかもだけど、このパターンは自分の中での真理みたいだ。

よくよく思い返すと、高校の部活で部長やったときも
・副部長とかと話すとお互いの苦労話や、メンバーはなかなか分かってくれない的な話になる
・役職なしメンバーには、そもそも共感できないだろうと最初から反発感をもってしまう
という同じような構造になっていた

大事なことなので今一度結論。
【組織や他者への不満ばかり目についたときは、しがらみなく関係の薄い客観的人物から、自分自身に対する指摘をもらう。そしたら「自分が何ができるか」ベースで自分を見つめ直すことができる】

30歳にしてこの自分の中の真理を言語化できるって遅いのか早いのか。。
よくわかんないけど、現時点で、もっと腐る前に自身を見つめ直す毎に成功したのは幸いということにしとこう。

うーむ、全く面白くもなんともない記事だなぁ。
ここまで読んでくれた方、なんかごめんなさい。笑

あと一応書いとくと、病んでる訳じゃないです。笑それに仕事もかなり好きです。
だからこそ糞真面目に考えて不満が出てたんです。

いつでに色々書こうと思ってたんだけど、ながくなったので一旦区切ります。
おわり


20210412追記
先日の反省から、身近な課題について早速動いてみた。

課題:事業者向けの公式資料が分かりづらい。
公式資料作成は専任担当者が作成しているが、事業者と相対してない人ので、丁寧でキレイではあるが、事業者が分かりやすい表現になってない。

動き1:現状、資料はできあがった段階でセールスに展開され、その後すぐサポートデスクから各事業者へ発報されている。
資料作成序盤からセールスにも展開して貰い、普段事業者と接しているセールスのエッセンスを入れられるよう運用を変えていくべく、まずは資料作成担当(=普段事業者と直接かかわることない人)に相談。

動き2:とりあえず自分の担当事業者向け会議で出している資料をセールス内で展開してみた(デザインやセンスはさておき、端的で事業者目線で分かりやすい言い回しってこうゆう感じのイメージ、というアピール??)

実はどちらもセールス内の週次の共有会でまずは課題をぶつけてみた結果もらったアドバイス

自分でアイデア出すことは大事だけど、正直回りの同僚の方が頭がよく的確なアイデアを出せる人が多い。
自分が課題を出す(ただし、愚痴ではなく前向きに変えたいという想いを表明)だけでも、同じビジョンの同僚がいいアドバイスをくれることを改めて実感。
あとはアイデアを「誰かやってくれないかな」ではなく、最初は自分で動いてみる。

思ったより周りからも良い反響があって、自分もやる気出たし、同僚も捨てたもんじゃないなと組織への好感度?も上がったし、周りへの焚き付けにも繋がったように感じた。

ビジョンとしてあたり前のことなのかもしれないけど、数日前の状態は不健全だったことに気づかなかった。

どうしても変わらない環境はあるかもしれない。だけど変えられる環境もきっと沢山ある。
ましてやうちの会社はまだまだベンチャーなので、変えられるはず。
むしろ変えられることがベンチャーの面白さ醍醐味であり、これを諦めたらどんどんつまらなくなっていく。

この気付きは大きい。

この課題については引き続き改善できるよう、頑張って行こうと思う。

あとやりたいなと思っていることメモ
・皆ここで働きたいなと思うセールス部作り(=離職率も減り、皆ヤル気出る=自分もより納得ができる組織となり、ヤル気が更にアップする)
・配車アプリを主においた企業SNSアカウント立ち上げ。youtubeとか

無理矢理こりゃめでてーな 伊藤オチ

今の自分の状態。
超満足してる訳でもなく、超絶寂しいわけでもない。
超彼女欲しいわけでもないし、恋活結構めんどくさい、けど彼女いらないわけじゃない。
会社への不満(これは以前の状態と比べたときのもの)はそこそこ。自身がもっと実績出したい、目立ちたい。なんであの部署ばかり?みたいな若干の嫉妬?もある。
けど忙しすぎて周りが見えなかったり自信過剰なわけでもなく、良くも悪くもプラマイゼロっぽい感じはする。

今の状態でもいいと自身で認めること。
他人と比べたり、自身のいい時期と比べすぎない方がいい。人生波があるが、浮いてるときも沈んでるときもそんな自分は認めた方がいい。(ただし、住まいやら職場や友達関係やら、居心地が悪い環境で、疲弊や毒されていく感じを、悪い意味で諦めるのを肯定してるわけではない)
お酒のんでなにやってんだー、とか、寝坊して自身を攻める、とかあるけども。
それはあまり意味ない。なんとなく沈む上に、どうせほとんどの戒めは忘れるんだから。だったら楽で楽しくいた方がいい。
いい時も、悪いときも、今みたいなプラマイゼロな時も、それぞれの状態を認めよう。どんなに沈んでいても意味あとから教訓になる。
プラマイゼロの今は、時間もお金の余裕も、ある種何でもできる状態とも言える。
だから今を受けいれてこれはこれで楽しんで、思ったことを、とりあえずやってみよう。
めんどくさい~はあるあるだけど一歩踏み出そう。
恥ずかしいとか、プライドとかは、結果一番邪魔だからいらない。
だったら酒のんでこれらのリミッター外したほうがまし。これらが枷になって結果素直にやりたいことできないのが一番もったいないし馬鹿くさい。


、、と長々書いたみたが、こんな気持ちは、ほぼどんなケースでも、ブルハのこの歌詞でハイパー端的に優しく力強く肯定されてしまう。※『しまう』というのは、ウマイ!してやられた!的な尊敬の念を込めつつ。

ここは天国じゃないんだ かと言って地獄でもない
いい奴ばかりじゃないけど 悪い奴ばかりでもない

うーむ、甲本ヒロト凄し。
色褪せねーな。

、、、謎完結。笑

むぅ、過去一番脳ミソ使ってない記事な気がする。。
悔しい!悔しい!だが、これでいい!←
(ほんとは1mmも悔しくないです)

おわり

ラーメン二郎なK君とチェーン店定食な私

ふと思い出した事。
昔は何か表現者への憧れがそこそこにあった。

昔は絵を描いたりモノ作ったりすることが好きで、図工、家庭技術、美術は通信簿で常に5だった。
シンプルにその時間が好きだったのもあるし、比較的人より得意な分野で誉められたい、自己表現したい欲があったんだと思う。
あとは平々凡々な自分への反逆、自分には他の人とは一味違うと価値があると自己満足させたかったのかもしれない。

高校はそこそこに進学校で、大学進学は上位の人は早慶、平均でMARCH、日東駒専いく人はちょい下位みたいな感じだった。
中学では成績優秀だった私は高校では勉強は頑張っても下の上~中の下といったところで、通信簿5はまずない。
頑張っても勉強では学校平均以上とはいかず、面白くなくて勉強があまり好きでなくなった。
そんな中唯一通信簿5をとれるのが選択美術だった。(多分、先生が優しいから評価ゆるかったのもあったけど)

いい大学いっていい会社入る他の同級生に、メンタル、自己満足的?に負けない為か、私は偏差値勝負を降りた。
大学は海外で農業開発者め目指す学科という謎ルートを進むことにした。シンプルに他と違って面白そうと思っていたが、これも『この人他とは違う』という一瞬の自己表現だったのかもしれない。
違うルートで他と張り合いたかった私は、実のところ自分に自信がほしかったのかも。

大学進学して農業したり海外調査したり、あとは謎イベント沢山のよくわからん部活に入部した。
今思うととてもネタにはなったので結構満足している。

どのタイミングだかは忘れたけど、写真部?のK君という変態がいた。
彼の変態性は、『吐血した女性の写真』を取るのが好きというところ。
モデルの女の子の費用全部出して、京都で着物女性の吐血した写真(血は血糊)を撮ってきた話を聞いた。
そしてK君は多分どMだった。

彼の変態性をもってした表現と比べると、平々凡々な私の表現などただのチェーン店の定食位に思えた。K君はラーメン二朗位の衝撃だった。
これはある種の悟りと言ってもいいかもしれない。
多分、それを機に美術、家庭技術的なことをあまり好んではしなくなった。

最近はたまにこんな感じで文章書いている。これは結構嫌いじゃない。
周りに勝ちたい、評価されたいというよりは、自分の中のふわふわした気持ちの整理、言語化という感じかもしれない。
自分で言うのもなんだが、私は弱い部分や正直な部分を人に見せるのは結構平気なので、恥ずかしげもなくこんな風に書けるのだと思う。
そしてK君みたいな変態的、天才的表現もあれば、自分みたいな表現方法もありなのかもと最近思ってきた。
チェーン店定食はそれはそれで良さがある。

成功者の本は勉強にはなるけどあまり面白くないというか、そこから自分の身にするのは難しい。
一方で、失敗談や素直な自分の内面を書いている本は結構好き。芸人オードリー若林のエッセイとか。
彼の文章は自分のふわふわした気持ちを、あ、これか!みたいな気付きをくれる。
チェーン店定食とは違うかもだけど、どちらかと言えば若林よりの文章を自分なりに書けたらいいな、とちょっと憧れたりする。
生活ノウハウやオススメコンテンツ紹介みたいな文章より、自分に焦点をあてて書いた方が断然楽しい。

と言うわけで引き続き思い付いたら文章書いていこうと思います。
おわり。

小学24年生 不安編

注)超とりとめのない文書ですが、『不安』というテーマをリアルで、あまり脳みそ使わず思うままに、吐き出してみました。

アラサーとは、基本30歳手前の20台後半を指して使う言葉である。
30歳になったら、文字通りそのまんま30歳。
無理繰り横文字にするとジャスサー。

小学生を6年で終わらせず『小学○年生』計算したら、ジャスサーは小学24年生。
小学生6年間は鬼のように長いが、その4倍。
気づけばサザエさんや野原みさえより歳上になってしまった。
小学24年生同級生は、結婚してたり子供がいたり、サザエや野原みさえと同じようなことできている人も多い。

当の私は今のところ俄然独身邁進中だが、彼ら彼女らと比べて焦り、不安もちょいちょいある。
20代半ばの友人の結婚式はほぼ祝福の気持ちでいっぱいだったのだが、アラサー結婚式になると1/4くらい焦りを感じるようになった。これが30代半ばだとまた違う気持ちなのだろうか。

小学24年生の私は、小学1年生の私と比べ何が変わったのか?
働いていること、一人で暮らしていること、お金を稼ぎぎ自由に使えること、童貞捨てたこと、彼女作るまでがなんとなくわかったこと。うん、こう考えるととても変わっている。
これがイコール大人になったということでいいのかな。

周りの人、特に同世代と比べたとき発生するネガティヴな感情は小学1年の頃から、内容と形を変えてるだけで同じような気持ちの繰り返しだ。
代表的な所で言うと、テレビゲームが弱い、球技下手、イケメンじゃない、彼女いたことない(いなかった)、学歴、年収、独身。。
よく人間飽きないなと思うが、忘れる機能がきちんと機能してしまっている結果なのだろう。
ただ、多少この気持ちにも経験を積んで劣等感が減ってきた・克服してきた感と、そもそも慣れてきた感がある。
この気持ちをよりコントロールできるようになるのが、自分の中の一番しっくりくる『大人になった』な気がする。

多分このコントロールは並大抵ではないので、ベースとして大きな不安を抱かないような環境にいた方がよい。
大学時代の思い上がりで自分はある程度タフで優秀なのでは?と思ったが大きな勘違いだった。ただ環境が良かっただけ。社会人になって思い知った。
自分にとって居心地のよい環境で精神衛星を保つことは大事だと思う。マジで。

あと、最近感じ始めた一つの不安がある。
それは不感症化の懸念である。これはつまり、経験が増えた、慣れてきたゆえ、感情的になるシーンが減ってくること。
イコールシンプルにつまらないことが増えたとも言える訳で。
子供の頃よりお金があってできることの幅が増えたはずなのに、なんかこれ悔しい。
せっかくなので小学1年生の頃の私に羨ましがられるようなワクワクをできるだけ濃厚に日々積み重ねていきたい。というのが理想。
感情的になれること、自分の五感を満足させることができるものを日々の生活で探している。
本、漫画、映画、ドラマ、たまにヒットがでてくるととても嬉しいけど、ヒットを発掘するまでの(私的な)駄作積み上げ作業がなんともめんどかったりもする。

今んところ間違いないなと思うのは、自分の好みにあった飯屋を探すこと。
これは胃袋を通して、脳が有無を言わさず幸せホルモン?を出してる感がある。
最近自分の好み、選球眼(選食眼?)はかなり分かってきたつもりなので大きく外すことは以前よりだいぶ減った。

あとはブルーハーツの音楽を聞いたときのなんとも言えぬ感動感とか。
私は思ったより言葉というのが好きみたいで、甲本ヒロトの超高センスワードは音楽とあの真っ直ぐさも相まって心によく染みる。
人により色んな不安があるだろうけど、あの全て肯定してくれる感と優しさたるや、他になかなかない気がする。

なお、コロナについては元来の?ノーテンキさで、不安はあるけど一時的なものというか、そこまでではない位置付けである。

結論も何もないので、とりあえず不安編については以上。

下記以下、一応補足。
かつて濃かった
・彼女いたことない(いなかった)劣等感
・仕事の不満、不満
・お金の不安、年収の劣等感
は、彼女が累計何人かできたこと、及び2度の転職でほぼクリアになっている。
日々の仕事がつまらない訳ではない。自分の性格上、つまらないと思う仕事を長くやっていくのは多分できないことを悟った。
今は結構面白いと思う仕事で、大きく不安にならない、ある程度満足レベルの給料は貰えている。
これはとても有難い事だと思う。
基本、不安に焦点を当てて正直に書いてみた訳であって、仕事やプライベートに全然満足していないという訳ではない。

言ってしまえばある程度幸せ目の普通である気すらする。
そんな中にすら潜む、人生の永遠のテーマになりうるであろう不安をあぶり出してみたのが今回です。

差別について本気出して考えてみた

コンビニ人間』という書籍をご存じだろうか?
芥川賞を受賞したことでとても話題になった本だ。
内容は超ざっくり、コンビニを舞台にマイノリティな主人公の視点から、世間やマジョリティのオカシさが描かれているというもの。
私にはない視点だったので、とても新鮮で面白いと思った。

読んだのは数年前だったが、先日『コンビニ人間』についての感想について書かれたこの記事で衝撃を受けた。
https://anond.hatelabo.jp/20200607142545

~記事の抜粋~
ネット上での感想は、「普通が何かわからなくなる」とか「こんな人間怖い」などと言った、自分とは違う存在に対する存在に対する感想がメインだ。
だが、私は全く別の感想を持った。「ただの日記じゃないか」。
どこにも不自然さや意外性を感じなかった。
コンビニ人間」は本当に私の日常を書いていた。人に合わせて上手くやっていると思ったら変人扱いされていることに気付く瞬間。
私が招かれない普通のイベント。
私の異常性を許容してくれていると思っていた人から突然つきつけられる異常性への嫌悪。
全て日常だ。私が日記を書いていたら同じ内容になっていただろう。
だから私はこの本の価値がわからなかった。
~~~~~~~

先述の通り、私にはない視点で世間・マジョリティのオカシさが描かれているから面白いと思った。
だが、この記事を読んで振り返って考えた。
本当にそれだけだろうか。
実は、無意識にマイノリティーな主人公を見世物的な感じで楽しんでいた部分もあるのではないか。
また、無意識に主人公との比較で自分はマジョリティーであると安心してはいなかっただろうか。
正直、そんな部分を意識していた訳ではないのでイマイチわからなかった。
自分の感情なんてものが一番曖昧で分析が難しい(少なくとも私は自己分析が苦手だ)

さておき、この事がきっかけで差別について改めて考えてみた。
結果、差別はある種人間の性であり世の中から失くすことはできないという結論に至る。
悲しい結論だが、私が差別したいがゆえに出した答えではない。

まず、『お笑い』と差別について考えてみた。
初球から変化球投げたように思われるかもしれないが、かなりこの2つは密接な関係である。
『お笑い』には色んなタイプがあるが、要素として差別的なところが多分に含まれ、またマイノリティなところが面白さに繋がっているケースは多い。
埼玉ディスりなどライトだがその典型。
マツコデラックスはデブのオカマだから面白い=見世物的な面白さがあるのだと思う。恐らく、無意識的に。
また、子供がハゲ、デブ、シンショウといったワードがやたらと好きなのは、ある種原始的で人間の根源的な欲求に基づいているのではないか。

次に、人間は家族とか同郷とか、何かと『くくり』を作りたがる事について。
これは間違いなく区別ではある。
何かしら『くくり』をつけて他者と区別するのは人間の本能なのだろう。
区別が人間の本能であるとして、区別された側の人間が『区別されたとマイナス的に捉えた』時、それはもう差別なのではないか。
口に出さずとも、そう言った瞬間は顔や目元からも読み取れる。

つまり、いくら道徳の勉強をしようと、人間の本能でもあるこういった感情が世からなくならない=差別はなくならない。ということになる。
だが、差別により生命や人権を著しく損なうケースを減らす。なら可能性はあると思う。

私の友人からの出た意見。
~~~~~~~
人間は人間である前に動物である。
差別が潜在的反射におこる仕組みに対して、道徳とのバランスがとれていない。
自分におこる反射に対して俯瞰的にとらえ、人間として正しい思想行動を示す事が大事なんだと思う。
~~~~~~~
心理だと思った。
上記を勉強するのが、人間というものに基づいて本気出して差別を考えてみる、に一番近いように思う。
だが、このような議論はあまりされず、表ヅラ『差別はよくないのでやめましょう』といいことだけ言っているだけな気がする。
これはなぜか。もっと頭のいい連中が考えてもよさそうなのに。
説として、マジョリティー(大多数・差別をする側)のトップレイヤーが差別を利用して利益を得ているからなのではないか?というのがあがってきた。
分かりやすい例がドナルド・トランプ
あそこまで分かりやすくはないものの、差別があることで実は得している上級国民が多数いるので、本気出して考えてみた説が普及していないのではないだろうか。
この陰謀論説はこれ以上は広がらないので終わりとするが、絶対にあると思う。

最後に、世の中全体は変えられないが、マイノリティーを逆手にとり武器にして活用して生きること。
いろんな劣等感は自分の中ではぶっ壊せるのではないか。という可能性について論じてみたい。

武器として活用している事例だが、分かりやすく言うとマツコデラックスはじめとしたオカマタレント、ゲイタレント。
精神・身体的なところで悩みはつきないと想像する。一方、仕事としてはマイノリティーを武器にして、差別と笑いの理論を上手く使って、あそこまで有名になった部分もあると思う。
マツコが普通のヤリチンイケメンだったら全然説得力ないしおもしろいとは思わないだろう。

また、昔バイトの伝手で観戦した、ドッグレックスという障害者のプロレス団体についても触れてみる。
結構人気があって、脚のない方vs腕がない方の試合、障害者vs健常者の試合など、内容は非常に衝撃的だった。
皆さんどう思うだろうか?可哀想だろうか?
可哀想と思うのはそれこそ差別である。
障害者自身が好んでプロレスを興じて何が悪いのか?
型にはめて、障害者は守られるべき存在であるという前提があるから可哀想だと思うのだ。
私も正直見る前はそう思っていた。だが、実際目の当たりするとカッコヨサに痺れた。
障害者が殴り合い=普通じゃない、なんだか可哀想。こんなステレオタイプを自ら破ってきてる彼らがとてもクールに見えたのだ。
社会的弱者で守られるべき存在だと型にはめらがちな彼らの反骨精神、ロックンロール。
彼らと比べるのも失礼だとは思うのだが、どんな人間にも劣等感や気にしていることはある。
当然私もある。
それを気にして落ち込んだままなのか、自分や回りの目に反逆して生きるのか。
彼らは後者としての生きざまをリングで体現しているようであった。
また、前者はより弱い立場を区別・差別するに陥りがちな気がする。
対して後者の人間は自分・世の中と向き合い、抗い、少なくとも『生命や人権を著しく損なう』レベルの差別はそうそうしないと思う。

『差別はある種人間の性であり世の中から失くすことはできない』と記載したのだが、皆が反骨精神をもってマイナスに抗った結果、上記のようにマシにすることはできる。
そしてその結果が、陰謀論で利益を得ている輩にたいしての最大の反逆になるのだと思う。

転職について➇(転職観について)

私は今年で30歳。

大学卒業し、社会人8年目で転職2回を経験、只今3社目。

セールスという職種は変わっていませんが、1度業界はガッツリ変えてます。

 

転職歴だけ見てどのように感じるでしょうか?

「転職しすぎ」「このご時世だと普通」「自分の方がもっと転職してる」、、、

いろんな捉え方があると思いますが、どれも正解だと思います。

というか捉え方は自由なんで正解・不正解もないんですけど(笑)

大事なのは転職した本人がどう感じてるかですが、今の会社かなり満足してます。

今までの3社の中で一番楽しいし、やりがいあるし、人間関係も良好。

更に、売り込む客層の感じも自分に合ってる。

2度の転職を経て今の会社に巡り合うことができ、本当にラッキーだったと思います。

残業が多くて大変な時期もありましたが、それでも何とか向き合って頑張って仕事できていたのは、やっぱり今の仕事が好きだからだと思います。

(今までの仕事の詳細は過去シリーズをご覧ください。最初がこちら⇒転職について➀ - すーやん気ままブログ

 

さて、このブログをご覧の皆様。そうです、あなたです!

(そもそも、こんなショボショボ文書を貴重なお時間割いてご覧頂きありがとうございます!改めて御礼申し上げます!)

あなたはいかがでしょうか?

今のお仕事、満足してますでしょうか?

 

今回は私の今まで経験で得た転職観について3つ語ってみたいと思います。

『今の仕事満足してます!』と言い切れない方は、考え方の一つとして、少しでも参考にして頂ければ幸いです。

 

親世代のいう事はあんまり参考にするな

今までの経験からたどり着いてしまった考え。

私は新卒で入った会社(一部上場、体質古めのメーカー)を辞める際、両親や職場の人に大反対されました。

当時の職場の方のほとんどが20以上歳上、両親に至っては30以上歳上。

彼らの多くはバブル期経験者です。

バブル期というと、どんな業界でも右肩上がりで、頑張って会社に貢献していれば勝手に給料があがっていって安泰だった時代(と言うイメージ)。

いわゆる終身雇用が当たり前時代ですね。

また、両親も会社の人もほぼ転職経験がありませんでした。

ネットがなく情報収集が大変、コンタクトが難しかった、景気が良くてどの業界も右肩上がりで終身雇用が保証されていた時代。

転職するリスク・コストが今よりずっとずっと高かったので、現職維持が基本的に合理的判断だったのかもしれません。

彼らにとっては、「転職」は自分が経験したことがない未知のもの。また、同じ会社で頑張れば報われるという成功体験を得ています。

対して、私世代はケータイやパソコン当たり前、ネット全盛期、終身雇用の崩壊、、

世の中が大きく変化し、育った時代背景による価値感は彼らとは全く違います。

なので彼ら世代とギャップが発生し、転職に大反対されたのも今考えれば当然でした。

 

多分、自分が彼らの立場でも同じく転職大反対派人間だったと思います。自分の経験をベースに物事を語る。超普通の事ですよね。

特に両親は私の事を心配して、私が道を外さぬよう自身の経験から助言をしてくれたのだと思います。

自分の事を心配してご意見を頂けたことはホントに有難い事です。

問題は、自分が幸せに働く為に、彼ら世代のやり方をすべて鵜呑みにしてホントにOKなのかってことです。

特に身近な立場(両親とか)からの助言ほど、感情がガッツリ入って彼ら世代価値観が色濃くなって、自分とのズレが大きくなります。

 

そもそも、転職したことない人に転職やめろと言われるの変じゃないですか?

ピザ食べたことないおばあちゃんに「ピザはまずいから食うな」と言われてるようなもの。笑

だから、そんな人の話は基本聞かなくていいんです!(そもそもピザがうまいかなんてのは自分の舌しか知りませんし)

ただ、真面目で素直過ぎる人は彼らの意見を完全に鵜呑みにし、自分とのギャップで悩んでしまうんですね。現に私がそうでした。

当時めっちゃ悩んでましたが、転職して人生とても好転しました。

転職してよかったんですけど!?と、助言をくれた色んな歳上の方々に心の中でツッコミまくりました。

 

ただでさえ転職は将来に対して不安感じたりストレスかかるのに、加えて正しいかどうかも分かんない他人の意見との違いに悩んだり、ストレス感じる。

これはほんと体力の無駄です。

なので、そういった意見はあんまり聞かない、もしくはスルーする!

これが私の2度の転職で得た結論です。

といってもそんな割りきれる人間なかなかいないし、不安だから相談するわけなんですけど(笑)

また、私は20代独身で転職しましたが、家庭をもったり子供がいたり、年齢層が上だったり、、人によってはそう簡単に転職できないし!と言う方ももちろん多くいらっしゃるかと思います。

ただ、お伝えしたかったのは世代・価値観の違う世代の意見を聞くのは上記のようなマイナス要素も多分に含む。という事です。(むしろ疑ってかかってちょうどいいくらいだとすら思います

 

ちなみに二度目の転職は転職先が決まってから両親に報告しましたが、色々言われる時間が少なくなってひたすら楽でしたし、転職もしてほんとによかったと思えています。

 

現職継続におけるデメリットもある

継続は力なり。日本人のすごく好きな言葉です。

否定するつもりはありません。私の中にも根強くある言葉ですし、素晴らしいことだと思います。

ただ、物事って必ずメリット・デメリットがありますよね

転職のデメリット=将来が分からない、というのはよく語られます。つまり、将来が描きやすいのが転職しない、会社を続けるメリットですね。

では、転職しない(同じ会社を続ける)事によるデメリットは?

世の中的にはこの話でてくる機会あまりない気がします。が、確実にデメリットも存在するんです。

だってそうじゃなきゃ【物事は必ずメリット・デメリットがある】の真理に反するんですもん。

では、私の考えるデメリットは?

一言で言うと、

現職に満足しておらず、もやもやを抱えたままだと、本来発揮されるはずのパフォーマンスが発揮できてない説です。

つまり機会損失が発生している訳です。

 

図にするとこんな感じ。

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現職へのモヤモヤ、ストレスは時間が大きいと仕事の質が下がるだけでなく、精神衛生にも支障をきたすこともあります(私の1社目の経験より。笑)
このケースは仕事が継続困難になって辞める。みたいな分かりやすいパターン。

病めば病むほど回復時間もかかるので、環境が許す限り早く辞めた方がいいです。その分リカバリーにかかる時間も早いので。

分かりづらいのは「精神的に病むほどではないけど、ほんとに現職でいいのかな」みたいなライトなパターン。

このパターンでも、モヤモヤをずーっと放っておくと、上図のように時間と共に機会損失が増幅して非常にもったいない、と私は思っています。

転職した先の未来は現職を続けるより見えづらい。現職意地が安泰。この考えは痛いほど分かります。

ですが、上記のデメリットも実はかなり大きくて大事なのではないかと思います。

本来は現職維持安泰の考えと対で考えるべき。ただ、比べようがなく限りなく見えづらいから語られないだけなんです。

この理論は転職して今の会社にたどり着き、過去を振り返って自分の中で納得感が持てたというか、自分の中の結果論です。

じゃあ転職して失敗したらどうすんだ!?というご指摘もあるかと思います。全くその通り、全てはメリット・デメリットあるのである程度運です。

 

ただ、転職のデメリットを恐れて現職を続けることは水が滞留して見た目には分からずとも腐っていたが如く、それはそれでデメリットもあるはず。という一面を書いてみただけです。

 

現状を変えるには行動するしかない。

行動の先はいつだって不確定要素があります。

ですが、行動して分かった事はとても大きな気づきで、たとえ短期的に失敗だったとしても、長期的に見れば学び・教訓となるかもしれません。

それはそれで失敗という気づきを得れた、という事じゃないでしょうか。先の分からない未来に不安になって動けなくなるのもとてももったいないと思います。

 

とりあえず転職活動してみて、内定出てから考える

この事項だけちょっと具体的です。

転職先の未来が描けず怖い。

であれば、ほんとに転職する(=現職を辞める)まではやらなくてもいい。

ただ、別の会社の内定までを貰うまで、とりあえず転職活動だけしちゃうのはどうでしょう?

内定出るまで動いて、ほんとに内定でたらとりあえず考える。みたいな。笑

かなり適当な感じで書いてますが、私の2度目の転職はこれに近いスタンスでした。

現職しか選択肢がない・逃げ場がないと、現職に対する不満・モヤモヤが大きくなる気がします。

これを解消するには他の選択肢を持つこと。

つまり、他の会社にも行ける状況であること=内定貰う。ということです。

内定もらったけど会社辞めなかった。というパターンは経験したことがないので正直なんとも言えないです。

が、仮にそのパターンだったとしても、内定でるまで転職活動頑張った仮定でいろんな気付きや学びがあり、絶対無駄ではないはずです。

なにもしないで現職に対する不満・モヤモヤが滞留するよりは、とりあえず行動してみる。もがいてみる。

動けば何か見えてくるかもしれません。

 

以上、私が2度の転職を経験して得た転職観でした。

、、、何か転職コンサルの回し者っぽい感じになってしまったかもしれません汗

 

自分の周りの転職の悩みで言うと【転職しまくって取り返し付かなくなった】よりは【現職に不満があるけどなかなか踏み切れない】のパターンの方が多くような気がします。

この主因は先述の「継続は力なり」と「転職した先の未来が不安」かと思いますが、そこに対する私見を書いてみた次第です。

 

なお、転職するしないに関わらずこの本めっちゃお勧めです。

現職での働き方、働くについての考え方を見つめ直しできます。

と言う訳で、転職シリーズは以上で終了です!

ではまた別の記事で。